この自分に、世界を守ることができるなら。
そう決意して、自分は「彼」を見上げた—— ……。
ーー四人の勇者の物語 3ーー 旅立ち
「旅に出るううぅうっ!!?」
静かだった噴水広場に、ノコの大声が響き渡って反響した。
以前と違って静まりかえっているアリウスでは、大きい声はさらに大きく響く。
突然響いた大声に、広場から“数十メートル”離れている建物から人が飛び出してきた——
…という事は、伏せておくことにしよう。
未だにあっけにとられているノコの前では、
至近距離でその絶叫を食らったクリスケが耳を押さえて顔を歪めていた。
「ノ〜コ〜……。
…人の鼓膜をぶち破る気……?」
「いや、そんなつもりじゃ……って、違うっ!!
お前な、あの時頭ぶつけたせいで、どこかおかしくなったんじゃないか!?
正気になれ、正気に!ああ、なんて嘆かわしいんだっ、こんな若い年でボケてしまったなんてっ!!」
「……………」
大げさな手振りまで交えながらぎゃあぎゃあと喚きたてるノコを前に、クリスケは冷や汗を流すしかない。
…このノコノコは、一度考えを決めると、なかなかそれを変えないやっかいな癖があるのだ。
さっき話したばかりの相手に正気かと聞くのはどうかと思うんだけどなあ——と、クリスケは心の中だけで反論を呟く。
それとほぼ同時に、クリスケの中だけで困ったようなため息が響いた。
『………。…クリスケ、止められるか?』
「…………;あー…ノコ、聞こえる?
オイラ正気だから、とりあえずこんな所でぎゃんぎゃん騒ぐのはやめ…」
「分かってるのか!?今のこんな時期に旅に出るなんて、危なすぎるっ!!
そもそもお前は安静にしとくべき身だろーがっ!」
只でさえ引き気味な反論だった為、クリスケの声はノコの大声にかき消されてしまう。
ノコはもちろんクリスケの声など聞こえてはいないらしく、とうとう喚き声にジェスチャーまで入ってきた。
完全に気圧されて、クリスケが半歩だけ後ずさる。
「…や、確かにそうなんだけど……」
「だったらっ!今っすぐに病院戻って、安静にして寝てろ!
以上ッ!!」
びしいっとクリスケを指差して言い放ち、ぜえはあと荒い息をしながら、ノコは復興現場の手伝いに戻っていった。
その背中を見送りながら、途方にくれた風情でクリスケはため息をつく。
あの様子では、話を聞いてくれそうもない。
『……こっそり抜け出すしか、ないみたいだな』
こくん、と無言で頷く。
あの調子では、一週間かかっても説得はムリだろう。
そもそも、自分だってこういう不思議な事の説明や誤魔化しは大の苦手なのだ。
…一ヶ月弱もの意識不明から立ち直ったとたん、旅に出ると言ったら、誰だって反対するのが当たり前なのだが。
……しかし、この世界にはもう、立ち止まっている時間は残されていない。
「今日の夜に……」
——出発します—— ……
———————————————————————————————————
満月の浮かぶ、深夜の街中。
静まり返った道を、ひたひたと歩いている小さな影が一つ。
街の門のところまで来ると、それは、そっと辺りを見回した。誰もいないことを確認して、小声で呟く。
「……誰も、いない…よね?」
『おそらくは……』
よし、と呟くと、クリスケは門の横に無造作に積み上げてある、自分の背の半分ほどある箱に足をかけた。
そして、そのまま登ろうとして——ふと動きを止め、箱の側に生えていた木を見上げる。
少し考えた後、クリスケは右腕に巻いてある飾り布を解き、一番低い枝に結びつけた。
ノコへの、せめてもの自分が旅に出たことを示す印だ。
「…きっと、皆を助けるから。ノコ、チビたちのこと、宜しくね」
自分たちと家族のように過ごしてきた、まだ小さな子供たち。
クリスケは、両親の顔を知らない。
物心ついた時から、親の無い子や育てられない子を預かっている家で育ってきたのだ。
それをコンプレックスに思ったことなどは一度も無い。
…しかしだからこそ、今回の内緒の旅立ちは、迷いはなくても——
「……あー、ちょっと罪悪感が…皆探すんだろうなー…;
…ごめんね、でもオイラは……行くから」
伝言を託すように、結びつけた布を見つめて呟く。
そして、片方だけになった飾り布を風にひるがえして、クリスケは箱の上に身体を持ち上げた。
積み上げられていた箱を階段代わりにして、あっという間に門の上まで上がる。
『…………。
そうして門の意味が無くなっているのを見るのは、少し複雑な気分だな…』
「うーん…今回はしょうがないですよ」
国王の言葉に苦笑する。
確かに、都を守る為に建てられている門が、
実は頭を使えば子供にも軽々と越えられえるものだった、というのは王にとっては複雑かもしれない。
「でも、おかげでこうやって街を抜け出せるんですし」
門の上に膝を付いて、クリスケはひょいと下を覗き込んだ。
下までの距離はあるが、見張り用の小窓を伝っていけば何とか降りられそうだ。
「………行ってきますっ!」
一度顔を上げてアリウスを振り返り、クリスケは小声で呟いた。
門のふちを掴み、器用に小窓に足をかけて、はしごを降りるように少しずつ地面との距離を縮めていく。
そして、幾つめかの小窓に足をかけた時、小さな掛け声と共に、クリスケは身体を捻って両手を離した。
……とんっ!
少々よろけたものの、何とか無事に着地する。
緊張で止めていた息を大きく吐き出して、クリスケは門を見上げた。…これで、しばらくはお別れだ。
『……ところで』
「?……何ですか?」
唐突に、国王の声が響いた。
切り出すタイミングを待っていたのだろうか、少々硬い声音になっている。
クリスケが首を傾げて待っていると、遠慮しているのか、ためらう様な言葉が聞こえてきた。
『—— …別に、敬語で話してくれなくても良いのだが……』
「……え?」
思わず、聞き返す。
自分の中にいるのは、一度死んでしまったとはいえ、この国の王。
それなら、と自然に敬語で話していたのだが、何か理由でもあるのだろうか?
しばらくの間、クリスケを首を傾げたまま考え込んでいたが——やがて一つの考えに行き着いて手を打った。
「……もしかして、敬語とか苦手なんですか?
それだったら、普通に話しますけれど」
『ああ、それで良い』
「それなら、……あ。じゃあ、名前……。……あれ?
…………うぁー…なんて…呼べば……」
いくらなんでも、敬語が嫌いな王様にわざわざ国王様、というのも無いだろう。
かと言って、その王も持っているだろう名前で呼ぼうにも、
……………。
クリスケは、情けない呻き声を上げてがくーっとうなだれた。
…クリスケが、この時ほど通っていた学校で話を聞き流しまくっていた事を後悔したのは、言うまでもない。
いくらなんでも、自国の王様の名前が思い出せないのは世界中で自分だけだろう、自分に一人でツッコミを入れておく。
さすがに気に障っちゃったかなあ…と、クリスケは、おずおずと顔を上げた。
…とは言っても、そこにあるのは夜の景色だけなのだが。
『ああ、まだ言ってなかったか……。
……………。…カーレッジ、と言うんだ』
しかしクリスケの予想とは裏腹に、返ってきた声には気を悪くしたような様子は感じられなかった。
言葉の端に、少し苦笑が滲んでいるだけだ。
少し拍子抜けして、クリスケは目をしばたいた。
王様、と言うものは“厳格そう”だとか“怖そう”だとか、そんなイメージをクリスケは持っていたのだが、
どうやらそれは思い切り間違っていたらしい。
「えっと…。……カーレッジ?」
やや遠慮がちに声に出してみると、頷くような気配があった。
ほんの少しだけ、名前に聞き覚えがある。
どうやら、さすがに頭の端っこの方ではちゃんと国王の名前を覚えていたようだ。
『急いだ方が良いぞ、いつ人が見回りに来るかも分からない』
こくん、と頷いて、クリスケはもう一度だけぼろぼろになってしまった街を見上げた。
そして、決意を表すように身をひるがえし、街道の続く方角へと走り出す。
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ちょうど、その同じ頃。
「お呼びでしょうか、女王様」
音を立てて、床に影が広がる。そこから、マジョリンがすっと立ち上がった。
……かつて、玉座の間と呼ばれていた部屋。今やそこは、影の女王にあとかたも無くその姿を変えられていた。
闇の魔法をかけられて、あの平和だった頃の面影はほとんど残っていない。
「うむ。……マジョリン、あの世界から、わらわのゾンババ達をこちらへと連れて来い」
その部屋の奥の奥、きざはしの向こうに置いてある赤い椅子に、影の女王は座っていた。
淡々と告げられた命令に、マジョリンの只でさえ悪い顔色がますます悪くなっていく。
「…え゛……」
「その後に各地へと送り、その猛威を思う存分振るわせる。
放っておいても、何の問題も無くいくつかの町を滅ぼしてくれるじゃろう。
…どうしたのじゃ、早く行け」
「……っ、…はっ!」
一瞬言葉に詰まった後、マジョリンは慌てて影の中に姿を消した。
その様子を見届けながら、影の女王は軽いため息をつく。
「……とは言え、あの三兄弟だけでは限度もあろう…。
何か、民を恐怖の底に叩きつけられる方法はないものじゃろうか…」
この世界は、以前滅ぼした世界よりも、だいぶ広い。
以前の世界では、あの三兄弟が世界の大半を支配できたが、今回はそうもいくまい。
そう呟きながら、ふと、影の女王は窓の外にある空に目をやった。
影の女王が現れてから空は日中でも暗いままだったが、…その代わりに見えるようになった物があった。
「………星か…」
この世界は、今まで滅ぼしてきた世界よりも、星の守護の力が強いらしい。
—— ……忌々しい。
闇の存在である自分にとっては、とてつもなく邪魔だ。
……なれば。
一つの考えを思いつき、影の女王は目を細めた。
「—— ……逆に、利用させてもらうとするか…」
くくっ、と気味の悪くなるような笑みを浮かべ、影の女王は右腕を振り上げた。
高らかな声が、本来の主を永遠に失った玉座に木霊する。
「闇よ、今一度集結し、その力強固なるものとせん!
—— …わらわの下僕たちよ!今、命を受け、各地の民達を…幸せや希望を、恐怖の奈落に陥れるのじゃ!!」
その刹那。
部屋の中に闇が立ちこめ、無数の影が現れる…。
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「ふあ…。
やっぱり、夜中に起きてるっていうのもキツいなぁ…」
てくてくと夜の森を歩きながら、クリスケは空を見上げた。
輝きは薄れているものの、満月が光っているのが見える。
思えば、こんなに傾いた満月を見上げるのも、初めてかもしれない。
「ええと…んー…。
満月が大体これくらい傾いてるから、今…2時くらいでしょ…じゃなかった。
…大体、2時くらいかな?」
『……ああ、満月が天頂から右に少しずれている…せいぜい、まだ1時過ぎだと思うが。
まあ、とりあえずは……』
「とりあえず?」
『…今日は、この辺りで野宿だな』
あまり現実味の無い言葉に、クリスケがまた動きを止める。
頭では分かっているのだが、やはりつい最近まで普通に暮らしていた心にはまだ衝撃が大きすぎるのだ。
「……、の…。
…そか、何か全然実感無いけど、オイラ達もう旅してるんだよね?」
『ああ、街は出たのだし、何もこんな深夜に進まなくてもいいだろう。
それに、夜の方が何かと危険が多いのだから、どこか適当な所で朝を待ったほうが良い。
このまま歩きどおしで夜を明かして、明日、日が昇ってから寝不足で倒れられると私が困る』
「………」
まだ何となく実感が沸かなくて、クリスケはふっと自分の背負っている袋に目をやった。
旅道具などの知識はほとんど持っていなかった為、
カーレッジに教えてもらうままに一通りの道具はそろえたのだが。
ほとんど勢いで飛び出してきてしまったので、そういう実感も置き去りにしてきてしまったらしい。
何せ、決心から実行までたったの一日だ。
『お前の場合は、大きな木の洞でも一晩くらいなら充分だろうとは思うが…。
ここしばらく雨は降っていないから、枝も乾いていて火は起こせるだろう。
最近の騒ぎで、厄介な者はこの辺りにはいないとは思うが、鉢合わせるとやっかいだな…。
…小さな洞窟でもあれば良いんだが…』
「…………;」
いやそう、確かにその通りなのだが。
明らかに自分よりもそういう部類の知識が豊かなカーレッジに驚きを通り越して驚愕しつつ、クリスケは辺りを見回した。
視界に入ってくるのは、続いている森ばかりだ。
「うーん…、見た感じ、そういうのは」
『無い、か……。
仕方が無い、適当な茂みで朝を待つしか無いな…。
私が何かあったら知らせるから、普通に眠っていてくれ』
「……え?国王さ…カーレッジが?
でも、オイラも交代で起きたりしなくて良いの?そしたらカーレッジが一晩中眠れないんじゃ」
『ああ、私はもう身体が無いから、眠くなるという事は無いんだ。眠ろうとすれば眠れるが、特に必要も無い。
お前とは五感を共用しているから、お前が眠っている間、視界だけは真っ暗なんだが…、
それ以外は感じるから、何かあったら分かる。
何かあったら、大声を出して叩き起こしてやるから』
心強い言葉に、クリスケは安心して息をついた。どうやら、慣れない旅もこれなら大丈夫そうだ。
そんな、まだ所々敬語が混じる不思議なやりとりを見ているのは、
空に浮かぶ満月と森の木々だけだった。
彼らはまだ気づいていない。
満月の下、空を覆う闇が、雲のようにゆっくりと動き始めたことを。
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静まり返っていた闇が、急に動いた。
床に影が広がると同時に、静寂をぶち破って騒々しい声が部屋中に響き渡る!
「ビビアン!ビビアンはいるさね!?」
「きゃ、きゃあぁあっ!?
……なんだ、お姉さま。どうしたの、こんな真夜中に?」
闇の宮殿の中、影三人組の住むその部屋。
突然の大声に、ビビアンは飛び起きるように影から飛び出した。
そして、目の前で腰に手を当てて立っていた姉を認めると、安心したように肩の力を抜いた。
…別の要因で肩に力が入った様にも見えたが。
マジョリンは、ビビアンに視線を向けると、さも普通の事を告げるように、言った。
「あんたに、仕事だよ」
「え?お仕事?」
「一つ前のあの世界に一度戻って、あのおっかない竜どもをこの世界へと連れておいで」
さらり、と告げられた命令にビビアンの表情がそのままで固まった。
「……・・…えっ?」
間。
言葉が飲み込めず、マジョリンを呆然と見返すビビアンに、マジョリンは苛ついたように片眉を動かした。
はぁ、とうんざりしたようなため息を一つつく。
「……きちんと言われないと分かんないのかい?これだからお前はいけない子だと言うんだよ!
あたしは、あのおっかない竜どもに腕を食いちぎられるのはごめんさね。
…という訳で、さもあたしが連れてきたかのように、お前があの竜どもをこっちの世界に連れておいで」
「…………ええぇぇえぇえっ!!?」
ようやく自分の置かれた状況を理解したビビアンが叫んだ。
それとほぼ同時に、マジョリンがぎろりとビビアンを睨みつける。
「〝ええぇぇえぇえっ!!?〟とはなんだい!?〝ええぇぇえぇえっ!!?〟とは!
……まさかお前は、お姉さまの命令に逆らうのかい!?
もしも逆らう気なら……」
“オシオキ”……と、マジョリンの口が動いた。
さああーっと、只でさえ青いビビアンの顔がますます青ざめていく。
「いっ、いえ、そんなつもりは……。
ごめんなさい、お姉さま…も、もちろん行ってきます…」
「大至急、さね。
……もしも遅れたら、その時は…分かってるだろうね?」
告げることを全て告げると、マジョリンはビビアンを置き去りにしてまた影の中へと姿を消した。
入れ替わりのように、マリリンが部屋の中へと現れる。
かたかたと震えて肩を抱きながら、涙目でビビアンは一つ上の姉を振り返った。
「……マリリンお姉さま…、もし良ければ、薬箱を用意しておいてほしいな…」
「んあ〜」
いつもより同情しているような声音を聞きながら、ビビアンは床に影を広げると、その中へと消えた。
…ゾンババたちと接触するという事ももちろん嫌でたまらなかったが、あの世界に戻るのも同じくらい嫌なのに。
滅んでしまったあの闇の世界には、悲しみと絶望と嘆きと、そんな感情の欠片しか残っていない。
アタイって“暖かい感情”に触れた事、ほとんど無いんじゃないかなぁ…。
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「ひどいよカーレッジッ、いくらなんでもその起こし方はないでしょっ!!」
『お前がいつまでたっても起きないのが悪い!』
静かな朝の森に、……正確には、静かだった朝の森に、ぎゃんぎゃんと声が響き渡っている。
しかし、カーレッジの声は一緒にいるクリスケにしか聞こえないので、
通行人が目撃した場合、少年が一人で文句を喚いているという、かなり妙な風景になるのだが。
「でもさっ、いっくらなんでもあれはないと思う!
確かに、昨日『叩き起こす』とは宣言してたけどっ!!」
事のいきさつは、こうだ。
日が昇った頃から、カーレッジはなんとかしてクリスケを起こそうとしていたのだが、
何度名前を呼ぼうと、本人はちっとも起きる気配がない。
しびれを切らして大声を上げたところ、クリスケは驚いて飛び起き、
その拍子に頭上の枝に思いっきり頭を叩きつけてしまった訳である。
叫び声を上げたのが悪かったのか、未だに半分涙目のまま、クリスケは頭を押さえて呻いた。
「あう〜……。
自分の声が響いて頭ががんがんするぅう……。
…とにかく、今日はこれからどこに行く?遠いんなら、そろそろ出発したほうがいいよね?」
ぶつぶつと文句を言いながらも、顔を上げる。
しばらくの沈黙が降りた後、カーレッジの声が聞こえ始めた。
どうやら、記憶の中の地図と現在地を合わせていたらしい。
『…とりあえず、この森を抜けると街道に出る。
そこをまっすぐ進んだ先に、…確か、ラワー・カノースと言ったか?
とにかく、小さな村があるはずだ。まずは、そこを目指そう』
「うん、分かった。それじゃすぐに…。……っ!?」
カーレッジの言葉に頷いて立ち上がりかけたクリスケが、突然息を呑んで後ろを振り返った。
そのままの姿勢で、歩いてきた道——アリウスのある方角をじっと見つめる。
やがて、クリスケは耳の後ろに手を当てて首を傾げた。
『……どうした?』
「なんか、今…低い羽音みたいな…。変な音がしたんだけど」
『……羽音…?』
空耳かなあ、と呟きながらクリスケが耳に神経を集中させる。
カーレッジも、聞こえてくる音に耳を澄まそうとして…視界の端をかすめた何かに気づき、驚愕して空を見つめた。
相変わらず音に注意を払っていて、クリスケはそれに気づいていない。
カーレッジは、クリスケと五感を共有している。正確に言えば、五感が伝えてくる情報を共有しているのだ。
例えば、クリスケが地面に目を向けていても、
カーレッジはクリスケの視界の端に映っている木から葉が落ちるのを見つけることが出来る。
伝えてくる情報は同じでも、注意を向ける先をそれぞれ違えることが出来るのだ。
つまり今回も、そういう事で———
『…クリスケ、空を見ろ!』
「え…、……っ!?」
頭上に広がっていた闇が、スピードを上げながらアリウス目掛けて飛んでいく。
まさかと思って振り返ってみると、アリウスと反対方向にある空の端が、明るくなっているのが見えた。
空を覆っていた闇が、移動しているのだ。
………ゥ…ン……
その瞬間、耳を掠めた音に気づいて、クリスケが目を見開いた。
さっき聞こえた音と同じ、響いてくるような重低音———!
「カーレッジ、この音だよ!
虫…じゃないよね……、そんな遠くから聞こえる訳ないし…」
聞いた事もない音に不安を覚えて、クリスケはもう一度空へ目をやった。
ますますスピードを上げて、嵐の時の雲のようにアリウスへと向かっていく闇。
それを見つめていると、突然、耳の奥で呻くような声が聞こえた。
しまった——という呟きが消えていく。
「…カーレッジ?どうしたの?」
『……まずい…!
話は後だ、…茂みに飛び込んで、伏せろ!』
「えっ!?なんっ…」
『良いから!!』
切羽詰ったカーレッジの声に、疑問を感じながらもクリスケは近くにあった茂みに飛び込んだ。
聞こえるのは低い音だけで、音の源の姿は見えない。それなのに、そこまで危険なのだろうか?
低い音が少しずつ近づいてくるのを感じながら、クリスケは僅かに顔を上げた。
「ねぇ、なん……」
『しっ!……あれだ!』
「あれ…?—— …っ!?」
茂みの僅かな隙間から垣間見える、アリウスから辿ってきた道。
その遥か遠くに、黒い影が浮かんでいるのが見えた。
あの低音を響かせながら、凄まじい速さで迫ってくる。
見たことも無い姿だが、分かった。あれが何なのかと聞かれたら、示す答えはたった一つだけだ。
「……まっ…、魔物…!?」
『そうだ、正確には…。影の女王が自らの影から作り出した、怪物だ!
この世界の人々を、恐怖の底に叩き落とすために生み出された存在……。
…油断していた、こんなに早く動き出すなんて…!女王が放ったに違いない!』
「恐怖の底って…まさか、この先の村を襲う気で……!?」
『おそらくは……、来るぞ、伏せろ!』
ゴオオオォオ……!
「ぅわっ……!」
魔物の群れが通過するのに合わせて、目も開けられないほどの凄まじい風が巻き起こった。
耐え切れずに身体が飛ばされそうになるが、何かに押さえられている。
…どうやら、幸い、茂みの枝に引っかかっているらしい。
ぐっ、と目を閉じていると急にまぶたの裏が明るくなったのを感じた。
さっき見た、移動していた闇が脳裏を掠める。
きっと今、あの空を覆っていた闇の最後の部分が、自分たちの上を通り過ぎていったのだろう。
オォォ…—— ……
少しずつ、音と風とが小さくなっていく。やがて、クリスケはおずおずと目線を上げた。
宙に舞い上がっていた木の葉が、ひらひらと地面へ落ちていく。
散々に荒れた森の道は、しんと静まり返っている。
一つだけ決定的に違うのは、…頭上の空から闇が消えていたこと。
アリウスの方に目を向けると、そちらは相変わらず真っ暗なままだったが。
「い……行った?」
『…ああ……大丈夫か?』
「うん、なんかに引っかかってたみたいだから。
……ねぇ!あの魔物たち、この先の村に行って暴れまわるつもりだよね!?」
血相を変えて、クリスケは勢い良く顔を上げた。
伏せていたので良く見えなかったが、それでもあの魔物たちがとても強いだろう事は分かる。
このまま放っておいたら、何が起こるか……想像するのは簡単だ。
『ほぼ間違いなく……』
「……駄目だよ!」
あんな恐ろしい物が突然村を襲ったら、村は壊滅するだろう。
……そう。自分たちの、街のように。アリウスのように、きっと抵抗する術も無く滅び去る。
ぐっ、とクリスケは両手を握り締めて、叫んだ。
「その村に、行く!!」
『………!?』
カーレッジが息を呑む音が聞こえた。
そして、直ぐに何かを言おうとするのを感じ、それよりも先にクリスケは慌てて口を開く。
「あぁああ、何も言わないで!
きっと、『行ったって何もできない』とか、『今から行っても間に合わない』とか、
『危険だ』とか言うんだろうけどっ、その承知で行くっ!
あんな魔物に勝てるとは思えないけど、でも、危険を伝える事だけなら出来るでしょ!?
あいつらは集団で飛んでるから広い道通ってたけど、
オイラ達は森の中の細道を直線で進めばきっと間に合うよ…!」
一気に言い切って、肩で息をしながらクリスケは宙を見つめた。
…もしもカーレッジが自分の中でなくて隣に存在していたら、その目を見つめて決意を伝えることも出来るのに。
しばらくの沈黙の後、やがて、呆れたような諦めたような、そんなため息が静寂を破った。
『そこまで分かっているのなら私は何も言わない。
……良いんだな、本当に?』
「…勇者探しは後回しにする!急ごう、早くっ!!」
一言で言い切り、クリスケは跳ね起きるように立ち上がった。
見えるようになった太陽で方角を確認する。移動した闇のことは気になるが、そんな事は後で考えれば良い。
道を蹴って、クリスケは精一杯の速さで走り出した。
どうか、どうか。
これ以上、あの街の人たちのように、悲しい思いをする人が出ませんように……!!
next・・