我ら地上族(ティ・エッラ)の赤き血は
誇り高き天の赤
彼ら地下族(ティ・ルーゾ)の黒き血は……
小さな村の、小さな広場に、創世神話の朗読が響く。
古びた革表紙の本を手に、腰を屈めた初老の宣教師は、震えながらも力強い声で、遠い昔から語り継がれてきた彼らの物語を、読み上げていた。
「皆、肝に銘じて置くように」
声の調子を変え、老人は本を閉じた。彼の視線の先には、村の男たちが手に各々の武器を持って、緊張で顔を青ざめながら、整列していた。小さな広場にようやっと入りきったという具合で、かなり窮屈そうに肩を寄せ合っている。まだどこか幼い顔立ちを残した若い者から、髪を真っ白にした壮年の男まで、村中の男のほとんどがそこに集まっていた。腰が曲がり、ゆっくりとしか歩けない老人たちは、広場の隅に座り込んで、積み上げられた弾薬や、食料や(弾薬の隣に積まれたそれは、弾薬の山に比べてあまりにも小さかった)血止めの薬草などを一まとめに束ねる作業に、黙々と没頭している。
宣教師は片手を挙げ、天に向かって手のひらを開き、乾杯を捧げるような仕草をした。そのまま、ゆっくりと腕を降ろして、指先を額につけると、目を閉じた。彼が祈りの言葉を呟くのに合わせて、広場に集っていた男たちは、宣教師とそっくり同じ動作を繰り返した。
「——もう、皆、分かっていると思うが」
眉間に深い皺を刻み、宣教師は首を振った。
「地下の民は水を従える。我らの土地に雨が降らぬのも、井戸が枯れるのも、彼らが水の流れを支配するがため。我らは天の太陽に守られた民。地下の民のように、水を毎日摂取する必要など無い。しかしそれでも、水を飲まねば生きられぬ。明日の日を数えると共に、雨が降らなくなってちょうど1年になる。——あの哀れなヒースが」
彼の声が沈んだ。男たちが、声にならない呻きや、ため息をついて、俯いた。
「我らの為にと飛び出していったのが一月と六日前だ。我らを思って、一人で地下の民の住む穴に……」
「もういい、もうよせよ、ディセンタール! 今更繰り返さなくたって、皆分かってんだろう!?」
ふいに、痰が絡んだような怒鳴り声が上がった。つばの広がった帽子を目深に被り、ほとんど表情を隠した壮年の男が、俯いたまま、肩を震わせていた。
「ヒースは、あの、忌々しい野蛮人どもに、殺されたんだよ! 俺の息子は野垂れ死ぬような奴じゃねえ、殺されてねえならとっくに帰って来てるはずじゃねえか!」
「ロナール、落ち着け! ヒースはまだ死んだって決まった訳じゃ…」
「水も持たずに出かけて、一月過ぎて、生きてる訳ねえだろうが!!」
彼の声は、ほとんど悲鳴に近かった。無闇に空を切って腕を振り回す彼と、彼を止めようとする者とで、広場が一気にざわめきに包まれていく。
——ガチャン、と乱暴に窓を閉める音が耳元で響いて、テラはカーテンの中でびくりと肩を竦ませた。自分を隠してくれていたカーテンから顔を覗かせると、いつのまにか背後に立っていた母と、思い切り目が合った。ばつの悪そうな表情を浮かべて俯いたテラの頭を、母がぺしりと叩く。
「子供がこんな話を聞くもんじゃないよ」
ぼそり、と、感情を抜いてしまったような声音で呟いて、母は溜息をついた。
「盗み聞きは命を縮めるって言ったろう、え? 全くもう……刺繍は終わってるんだろうね、テラ?」
「……うん。父さんのマントもベストも、ちゃんと縫ったよ」
「どれ、見せてごらん」
「ん」
母の表情が少し柔らかくなったことに安心しながら、テラはベッドの上に畳んで置いてあった厚手のマントを、そっと持ち上げた。さっと広げると、地面と同じ色の布地に、鮮やかな、真っ赤な太陽の刺繍が輝いていた。纏ったら、ちょうど肩甲骨の辺りに来る辺りだ。受け取った母が、満足そうに笑みを浮かべた。
「上手くなったじゃない、テラ。これなら大丈夫だ」
「ほんと? 父さんのこと、守ってくれるんだよね?」
テラの表情がぱっと輝く。母は、頷いて、歌うように調子をつけながら、ぽんぽんと太陽を撫でた。
「太陽神シャルナ様のお守りを祈っての刺繍だよ。太陽を纏う者、太陽に守られ、闇に狙われることはなし、って訳さ」
それは、この地方の地上族に伝わる、旅の安全と、身に纏う者の幸運を祈る、古くからの習慣だった。真っ赤な糸で、独特の文様を刻みながら描かれる太陽は、旅人の纏う衣装全てに、旅人に近い者の手で刻まれる。——本来は旅立ちの安全祈願の意味しか持たなかったはずのそれは、いつしか、戦いに旅立つ者の身の安全を祈るお守りとしても、刺繍されるものになっていた。
「私、すっごく丁寧に縫ったんだよ。父さんが怪我しないようにって」
母のエプロンの裾を掴み、一生懸命に見上げながら、テラは誇らしげに胸を張った。彼女の、女の子にしてはちょっぴりぼさぼさの短い髪を、母は笑いながらくしゃくしゃと撫でて、言った。
「父さんが喜ぶね。さ、それじゃそっちのベストもちょうだい。明日の朝には出発だって言うんだから、準備するにも今夜一晩しかないからね……」
頷いて、同じように刺繍を施したフェルト地のベストを、テラはそっと母に手渡した。
「母さん」
ぽつり、と小さく呟く。
「……父さん、どれくらいで帰ってくるかな」
「地下の民の住処まで、馬の足で2日かかるって言うからねえ……二週間くらいで帰ってきてくれりゃ良いんだけど。一月は掛かるかもしれないよ」
「そんなに掛かるの? だって、村長さんが、わしらは強いから、地下の民なんて簡単にやっつけられるって言ってたよ」
口を尖らせかけて——母の表情が厳しくなったことに気づいて、テラは慌てて表情をまじめなものに戻した。無言のまま母は窓へ視線を向けると、溜息をついた。
「……そんなことまで聞いてたのかい」
「だって……、村の人みんな、言ってるから」
「まあ、そうだね。聞くなって方が、無理か……」
二階にあるテラの部屋からは、道一つを挟んで、広場がよく見通せた。窓に遮断されたこともあるが、もう、男たちは落ち着きを取り戻したのだろう。ざわめきはほとんど聞こえてこなかった。先ほど叫んでいた男、ロナールも、今はすっかり大人しくなって、広場の石畳に蹲っている。何人かが傍らに膝を付き、その細い背中をさすってやっていた。他の男たちは、静かに、老人たちが纏めた旅の荷物を分配する作業に回っている。
「敵討ちなんて、人死にが増えるだけだろうに」
母の声は、あまりにも微か過ぎて、テラの耳には聞こえなかった。
*
村の男達が、地下の民の"討伐"に出かけてから、一週間が経った。
風の音が吹き過ぎる荒野に、硬い音が不規則に混じる。薄い鉄製のバケツを歩く拍子に蹴飛ばしながら、テラは一人きりで荒野を歩いていた。——寝ぼけ眼であくびを一つ。登ったばかりの太陽が、もうじりじりと背中を焼き始めている。紫から茜色へと染まっていく空は、今日も雲ひとつない快晴だった。
赤土が剥き出しの大地に、うっすらと刻まれた白い道。
テラの住む村から、か細く、荒野の起伏や岩の柱をくねくねと迂回しながら続くその道は、もうこの辺りでは唯一の、水の生きた井戸へ通じていた。集落から数キロ離れた場所にあることも手伝って、その井戸を使う村人は少なく、おかげで地下水は枯れることなく今も——かろうじて——残っている。
もっとも、それもいつまで持つかどうか。
ここ最近、村人達がため息をつきながら(あるいは、大声で地下の民を罵りながら)話すことといったら、離れ井戸の水位の下がり具合のことばかりだ。
「(そんなことより、)」
がっしゃん、とバケツを蹴りながら、テラはぼんやり思う。
「(父さんたちのこと、どうしてみんな心配じゃないんだろ)」
この一週間、地下族討伐に出掛けた男たちのことを話題にしていたのは、宣教師か村に残った老人くらいだった。母さんも、他の女性達も、ふっつりとその話題に触れようとしないのだ。その理由が、どうしても分からない——
「テラー、おはよおー」
遠くで、小さな人影が手を振っていた。
俯いていた視線を慌てて上げると、テラは土埃を舞い上げて走り出した。バケツがリズミカルな音色を奏で、揺れる。
「おはよ、サーニャ。……すごいね、バケツ、3つも? 溜まるの待ってたら、午後になっちゃうんじゃない?」
「うんー、そうなんだけど。ウチ、大家族だし、もうほとんど水がめ空っぽだから。頑張って3回並ぶよう」
ふにゃっと柔らかく笑う、サーニャは、テラよりひとつ年上にも関わらず、身長はテラよりふたまわり以上小さかった。小さな身体で、半分引きずるようにしながら重ねたバケツを抱えている。水の入ったバケツを3つ抱えて数キロの帰路を辿る彼女の姿がどう頑張っても想像出来なくて、テラは小さく溜息をついた。彼女の母親は、ちょっと、怖いのだ。無理難題を押し付けすぎる。
「いっこ、持つよ。時間掛かりすぎるし、3つも持って帰れないでしょ?」
「え、でも……テラに悪いよー」
「私、今日はバケツ1つしか頼まれてないもん。二人でやった方が早く終わるよ」
しばらくもじもじしてから、サーニャが微かに頷いた。
「…うん。ありがと。ほんとはやっぱりね、ちょっと、どうしようって思ってたんだ」
「いいよ。じゃあ、ほら、ひとつ貸して」
「ん」
バケツの蓋を外し、ひょいひょいと二つ重ねて、抱え持つ。もう随分歩いてきたはずだから、井戸まではあと1キロあるかどうかだろう。出来れば、暑さが本格的になる前に戻りたい。襟元にぱたぱたと風を送りながら、テラは空を見上げた。真っ青。快晴。ぎらぎらの太陽。
「あー……。冷たい水、飲みたいなぁ」
「あたしもー。もう半年くらい、ぬるい水しか飲んでないもんねえ。…ね、今日、井戸に誰もいなかったら、ひとくちずつだけ飲んじゃおうか?」
「多分、井戸の水もちょっとぬるいと思うけど…いいね、賛成。あとちょっと、頑張ろ」
「うん。お昼までには帰ろうね」
白い道を辿り辿り、大きな赤岩をいくつか迂回するうち、目印にしているのっぽの赤岩が見えてきた。此処までくればあと少しだ。
ふと、隣を歩くサーニャが目を細め、ぱっと表情を輝かせた。
「ルタおばさんだ! おばさーん、おはようございまーす!」
ぶんぶんと手を振るサーニャにつられて、テラも目を凝らした。確かに、遠くにぽつりと人影が見える。…が、それはあまりにも小さく、
「あれ、本当にルタおばさん? サーニャのお隣さんの? 私、全然見えないんだけど」
「サーニャは目の良さだけが自慢なのですっ、えへん! ふっくらお腹、あの歩き方、なによりいつもの真っ白リボン、間違いなし!」
「ふーん…。でも、ここからじゃサーニャの声聞こえないと思うよ」
「あ、そっか。後でもう一回やり直しだー」
苦笑して、サーニャは挙げていた右手をひっこめた。
2分も歩かないうちに、人影の頭に揺れる大きな白いリボンがテラの目にも見えてきた。ちょうど、向こうもこちらに気づいたらしく、手を振ろうとして——両手にバケツを提げているので出来なくて——悪戦苦闘している。サーニャがくすくすと笑って、もう一度声を張り上げた。
「ルタおばさぁーん、おはようございまーす!」
一呼吸の間を置いてから、こだまのように、おはよーう、と声が返ってくる。サーニャがバケツを抱えたまま走り出して、慌ててテラは後を追った。
「ちょっとちょっと、サーニャちゃん、そんなに走ったら危ないよ! ああ、ほら、テラちゃんも気をつけて、そこに石があるから! 全く、もう、朝から二人して元気だねぇ…!」
呆れたように笑って、ルタおばさんがバケツを地面に降ろした。ほら、と広げられた両手の中にサーニャがバケツごと飛び込んで、笑い声をあげる。テラは数歩遅れてやっと追いついた。上がってしまった息を整えていると、ぽむっ、と頭に手の平が乗せられ、髪をわしゃわしゃと撫でられた。
「やだ、おばさん、くすぐったいよー!」
「あはは、サーニャちゃんだけじゃ不公平だからね! ここ最近見なかったけど、元気だったかい? お母さんも元気かい?」
ちょっと考えてから、テラは小さく頷いた。元気、…だと思う。いつもより溜息の数も怒られる数も増えたけど。でも、それは村の大人達ほとんど全員そうだから、仕方ないのだ。きっと。笑顔が減ってないのは、ルタおばさんと、村外れに住むダイアナのお婆ちゃんと、…ぐらいじゃないだろうか。
サーニャが、ルタおばさんのお腹にしがみついたまま、地面に置かれたバケツを見やった。鉄製の蓋を微かに叩く水音を認め、感嘆の溜息を付く。
「ルタおばさん、もうこんなに水汲んできたの? 早いねえ! 井戸の水、どんな感じだった?」
「駄目だねえ、やっぱり減ってるよ。今日は水を汲みに来る人が多いと思うから、早くお行き。私も早く帰らなくちゃ」
ぽんぽん、とサーニャの背を叩き、ルタおばさんは立ち上がった。バケツを一つ頭の上に載せ、もう片方を左手に下げて。右手で頭上のバケツを支える間際に、ばいばい、と手を振る。サーニャは少し残念そうに、手を振った。それから、思い出したように呟く。
「ねえ、テラ、なんで今日は水汲みにくる人が多いのかな?」
「え? ああ、なんか、うちの母さんが、隣村の井戸が枯れちゃったらしいから、こっちもいつ枯れるか分からない、今のうちに貯めといたほうがいいって……」
「あ、それなの? それなら、母さんも皆で話してたよ。井戸を守らなきゃーって」
水汲みに出かける時、バケツを手渡しながら、テラの母親はずっと表情を曇らせていた。……いや、正確に言うと、険しい表情に憂いを湛えて、ずっと眉間に皺を寄せていた。バケツを二つ出そうとしては片付けたり、溜息を付いたり、落ち着きが無かった。みんな、不安なのだ。
多分、今日の夕飯は、三週間ぶりに水をたっぷり使ったものになるだろう。それどころか、コップに何杯も飲むことになるかもしれない。どちらにしろ、大変そうだ。
「……あ、見えてきた! うわぁほんとだ、みんな来てる。ミリアナのお姉ちゃんがいるよ。チビのラウナスも。あのこ、バケツ持てるのかなあ」
目の上に手をかざして、サーニャが首を傾げる。
テラの目にも、赤い岩と岩の間に掘られた井戸の骨組みが、見え始めていた。少なくない人だかりも。自分より年下の子供達が随分来ている。本当にみんな、今日いっせいに水を汲みに来たようだった。
「ねえ、サーニャ、そういえば、お姉さんや妹たちはどうしたの? 誰かに手伝ってもらえば良かったじゃない」
「んー、なんかね、皆で床下に穴掘るんだって。母さんの思いつき。で、ジャンケンで負けた私だけ、水汲み係」
「床下に穴? なにそれ、どういうこと?」
「さあ? 知らない。母さんの思いつきはいっつも良くわかんないから、あんまり考えない方がいいの」
サーニャが肩を竦めるのを、テラは首を傾げて見つめていた。
井戸から伸びる列の最後尾について、やっと二人は腰を降ろすことが出来た。村のみんなと互いに挨拶を交わし、落ち着いてから、テラはぽつりと呟いた。
「……こんなに人が来てるなんて思わなかった。帰るの遅くなりそうだね」
「お弁当持ってくればよかったかなあー。何時間並ぶんだろ……。ねえ、テラ、順番が来る前に水無くなっちゃったらどうしようね」
「…サーニャ」
「あ。…ごめん」
微かな声で諭すと、サーニャは慌てて口元を押さえ、俯いた。目が少し怯えている。辺りを見回そうとするのを片手で押さえて、代わりに、テラはサーニャの背後に目をやった。列に並んでいる大人たちのほとんどは聞かなかったふりをしている。こちらを睨んでいるのは、一人か二人といったところだろうか。
井戸の傍にいる全員が、もし、自分の番が来る前に井戸が枯れたらどうしよう、という拭いきれない不安を瞳に宿していた。
けれど、それは決して口に出してはいけないのだ。
「大丈夫。みんな、聞こえなかったみたい」
「ん…ごめんね。あたし、やっぱり馬鹿だなぁ……」
「仕方ないよ。私だってそう思うもん」
互いの顔を寄せあって、こそこそと囁く。サーニャは、少し泣きそうな顔をしていた。
村の決まりや掟は沢山あるが、中でも水を巡るものは、特に厳しい。
絶対に井戸の傍で喧嘩をしてはならない。絶対に井戸の列で横入りをしてはならない。絶対に並んだ場所を誤魔化してはならない。絶対に場所だけを取って村に戻ってはならない。水が枯れそうなときにも決して不安をまき散らしてはならない、など、など。破ったら、太陽神シャルナに見放されるだけではなく、村から追放されるオマケつきだ。
だからみんな、ピリピリとした不安を抱えながらも、無言で、自分の順番を待つしかない。
(バケツに半分くらいしか、持って帰れないかもしれないなあ……)
声には出さずに呟いて、テラはサーニャの背を摩った。
ひとり、またひとりと、バケツを抱えた村人が井戸から現れては降りてゆく。すれ違いざま、水位の報告が義務のように交わされる。
「井戸の底はもうほとんど干上がってるよ」
しわがれた声が告げた水位に、井戸の周囲がどよめいた。ぼんやりと遠くを眺めていたテラが振り返ると、井戸から出てきたディアナ——薬屋を営む老婦人だ——を取り囲んで、村の女性たちが顔を曇らせていた。
「あと、どれくらい……」
「水流自体はまだ生きてる。すぐには枯れやしないさ」
「そうだとしても、このまま雨が降らなければ絶対に枯れるんじゃない」
「やっぱり、村の全員で、土地を移るしかないんじゃないかしら……」
「おやめ。考えても仕方がないことだよ」
「…すみません」
全員が全員、ため息をついた。村を捨てる。そんなのはとても無理な相談だと、テラのような子供にだって分かった。身体の弱い老人や子供が、荒野の長旅に耐えられるはずもない。
「シャルナの加護があらんことを」
弱々しく呟いた一人が、天に杯を掲げる仕草のあと、井戸の底に降りてゆく。
井戸の周りに集まっていた大人たちも、それを合図に、元の位置へ戻っていった。バケツを抱いた子供たちは互いに顔を見合わせて、無言で慰めあった。ため息でも付こうものなら、大人に叱られるに違いなかった。
太陽が、天頂を通り過ぎ、少しずつ赤みを帯びながら傾いてゆく。
ようやく、テラとサーニャの順番が回ってきた時には、昼下がりをとっくに過ぎていた。
「……何時間待った?」
「駄目だよう、テラ、それ考えたら、もっとお腹空いちゃう……」
井戸から上がってくる足音、縄梯子が軋む音を耳に捉えて、テラは立ち上がった。痛くなった腰を伸ばし、叩く。待ちくたびれてげっそりしたサーニャが、切なげな声であくびをした。
まさかここまで遅くなるとは思っていなかったから、朝ごはん代わりの小さな揚げパンしか持ってこなかったのだ。片手で包み込めてしまうそれを、さらにサーニャと半分こしたものだから、お腹は殆ど空っぽだ。
「テラ、サーニャ、お待たせ。まだ、水あるよ。でも蝋燭消えちゃったから、新しいの付けてね」
小さな男の子が、井戸からひょっこりと顔を出した。
「ありがと、ラウナス」
「気を付けて帰るんだよー」
自分の身体の半分はあるような大きなバケツを抱えて、ゆっくりゆっくり村へ帰っていくラウナスを見送って、「さて」とテラは自分の頬を叩いた。
「あと一踏ん張り」
「うん。早く帰ろうね」
テラとサーニャの後には、誰も水組みに来る村人はいなかったから、井戸の周りにはもう誰もいなかった。後ろがつっかえるとか考えずに水を汲めて気楽でいいや、と思考を無理矢理前向きに持ってくると、テラはすたすたと井戸に歩み寄った。サーニャもバケツを抱えて後からついてくる。
井戸を囲むように張り巡らされた鉄柵の一カ所を掴み、引っ張ると、白い塗料がポロポロと剥がれ落ちた。ギィッ、と耳に痛く軋む。
赤くひび割れた大地にぽっかりと空いた、人一人がやっと通り抜けられるかどうかの小さな穴が、井戸の入り口だ。穴の上に渡された格子を外した。——真っ黒な深遠。もう見慣れたものだとはいえ、やっぱり少しは、怖い……。
「よしっ」
励ましあうように小さく頷きあうと、二人は唱和した。
「全てを照らすはシャルナの神、赤き血潮の光を湛え、我らを闇から守りたまえ!」
小さな手の平を空に、空の太陽に向けて掲げる。降ろした指で、コツン、と額を叩きながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。
井戸に、いや、暗闇に分け入らなければいけない時。太陽神シャルナに加護を乞うのを決して忘れてはいけない。生まれてからずっと叩き込まれてきたそれは、もう、信仰というよりは習慣だった。
アナサジの、地上の民は、半数以上がシャルナを唯一神として崇め、生活のあちこちにその片鱗を滲ませている。その神は、昼は太陽として、夜は月として、地上を、人々を、暗黒から守っているのだ。かつて世界の始まりの時、赤き大地を創造したシャルナは、その赤き光を血潮として分け与え、人を創った。その感謝を忘れれば、血潮は乾き、人は滅んでしまうのだと——シャルナを信仰する人々は、信じている。
物語に戻ろう。
テラとサーニャは、井戸の傍に置かれた共用ロープでバケツ4つを井戸の底まで降ろすと、自分達も、井戸の中に入っていった。底まで続く長い梯子を降りていく。やがて、とん、と爪先が地面について、テラはほっと息を吐き出した。一歩下がって、サーニャに場所を譲る。
「大丈夫? 見える?」
「ちょっと待って……」
暗闇に、シュッ、と鋭い摩擦音が響いた。マッチの灯が、ぼうっと井戸の底を照らし出す。テラは急いで岩壁の蝋燭にも灯をつけると、火傷する前にマッチの火を吹き消した。
井戸の底には、小部屋くらいの空間がぽっかり広がっていた。しばらくきょろきょろ辺りを見回してから、サーニャがその隅を指差す。一見、小さな水溜りに見えるそれが、井戸の水面だった。
「うわ、なにこれ、いくら何でもこんなに減ってるなんて……」
「今日みんながずっと汲んでたんだもん、しょーがないよ。あ、でも、こっちは大丈夫みたいだね」
岩の隙間から、ちょろちょろと流れる細い水流を見つけて、サーニャがほっと息をはいた。いそいそとその下にバケツを据えると、鉄製のバケツに水が少しずつ落ちていく。静かな音が井戸の底中に木霊した。
「どれくらい掛かりそうかなあ……」
「うーん…。バケツ一個三十分で、二時間、くらいかな?」
「二時間かあ。お腹空いたねえ…」
二人ともくたくただった。井戸の底に腰を降ろしながら、テラは溜息をつく。疲れたし、お腹もすいたし。…少しだけ。どうしても、思わずにはいられなかった。
自分だけで来ていれば、ここで、30分しか待たなくて済んだのにな…。
「……。ねえ、テラ。まだ時間掛かりそうだし、あたし、一回村に戻って、お弁当もらってこようか?」
「えっ?」
一瞬、どきりとした。サーニャはぼんやりしているように見えて、人の感情にかなり鋭いのだ。もしかして、自分だけで来ていればなんて考えてたことが、見抜かれて、気を遣って…?
「だ、駄目だよ。水汲みしてる間に井戸を離れちゃいけないって、お母さんも司祭さまも言ってたじゃない」
「二人とも離れる訳じゃないんだから大丈夫だよう」
「でも、あとたった二時間なんだし、それくらい我慢でき…」
テラの声を盛大に遮って、お腹の鳴る音がした。
真っ赤になって、反射的に自分のお腹を押さえたテラは、あれ、と首を傾げた。サーニャを見る。…サーニャもまた、顔を赤くしてお腹を押さえていた。
「ご、ごめん…。あたしが平気じゃないかも……」
今度は、二回転捻りを加えたような音が盛大に。きゅーう、るるっ、るー、…なんて、もう、まるで鼻歌のように鳴るものだから、テラはとうとう笑い出してしまった。笑い出したらますますおかしくなってしまい、お腹を抱えて笑い転げる。サーニャが半泣きになりながら、そんなテラの頭をぽかぽか叩いた。
「うわーん! 笑わないでよう、だってお腹すいたんだからしょうがないじゃないっ!」
「ご、ごめっ、ごめん、でもだって、あんなお腹の音初めて聞いたんだもん! お、面白くて、つい、」
「テラのばかー! いじわる! 絶交する絶交絶交! ひどいよー!」
サーニャも最初は本当に怒っていたかもしれない。ただ、笑い転げているテラもテラで、よく聞いてみたらお腹がぐうぐう鳴っていると気づいたとたん、サーニャも笑い始めてしまった。
散々お互いにぽかぽかじゃれあってから、息が切れて、井戸の底に寝転がって——結局、サーニャが一度村に戻ることになった。早足で歩けば、往復二時間くらいで戻ってこられるはず。ぐうぐう鳴るお腹とバケツを抱えて帰路を辿るのは、やっぱり、嫌だ。
「ほんとはね、自分のバケツだけ持って先に帰ろうかなって、ちょっと思っちゃったんだ、私」
梯子を上がろうとするサーニャの背中に、テラは小さく声を掛けた。ごめんね、と細く呟く。サーニャが振り返って、言った。
「あたしも、テラだったら、そう思うよ。きっと。あたしも、ごめんね。テラはバケツいっこしか頼まれてないのに」
「そうだけど。……でも、サーニャは、バケツ3つに水汲んで帰らなかったら、またお母さんに叩かれるでしょ。それはいや」
「…ありがと。多分、こんなに遅くなっちゃったんじゃ、どっちみち叩かれる気がするけどねえ」
「よかったら、サーニャの家じゃなくて、私の家に行ってきなよ。母さんならちゃんと説明すれば怒らないと思うし、サーニャの分くらいならお弁当詰めてくれるから」
笑っていたサーニャが、ふっと泣きそうな顔になった。でも、とかなんとか言い出す前に、テラはサーニャの背中を押して、手を振った。
「早く帰ってきてねー!」
見上げれば、ぽっかり空いた丸い空。井戸の上から手を振っていたサーニャが行ってしまうと、テラは壁の蝋燭を確かめた。まだ半分はある。蝋燭は時計代わりにもなる優れものだ。壁の窪みには予備の蝋燭も10本以上残っている。うん、大丈夫、大丈夫。
バケツを見に行くと、三分の二近くまで水が溜まっていた。これくらいあればいいだろう。別のバケツと取り替える。水の溜まった方は隅まで持っていった。うっかり蹴飛ばしたら大変だ。
ちょっとだけ考えてから、テラは、バケツに湛えられた透明な水面に指を浸した。そのまま手の平を沈めようとして、砂や泥でざらざらになっていることに気づき、慌てて細い水流のところまで行って汚れを落とす。(もちろん、洗っている間はバケツを外した)
手が綺麗になったことを確かめて、テラはそっと右手をバケツの中に沈めた。お祈りをする時と同じように、手の平を丸くして、引き上げる。手の平の窪みに残った僅かな水を、飲み干すと、冷たい流れが、すうっと身体の中を通っていった。
「美味しい…」
よし。もう大丈夫。これなら二時間、待てそうだ。
バケツに蓋を被せ、きつく閉める。地上の光が微かに差し込んでいる場所に腰を降ろすと、テラは、父さん達は今何処にいるのかな、と、ぼんやり考え始めた。鉄製のバケツに微かに落ちる水滴の涼やかな音に耳を傾けながら、目を閉じる。
私が縫った太陽の刺繍は、ちゃんと、父さんのことを、守ってくれているだろうか……。
>>
|