いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

 気が付くと、真っ暗になっていた。少しの間、寝ぼけて辺りを見回してしまう。
「…あ」
 水!
 慌てて立ち上がり、バケツの元へ行こうとしてやっと、暗闇に道を塞がれていることを思い出す。手探りでマッチを探り、火を灯すと、壁際に立てた蝋燭の芯はとっくに燃え尽きていた。もどかしさに小さく唸る。新しい蝋燭にようやく火を着け直し、テラはバケツの元へ走った。
 細い水流の下に添えられたバケツから溢れた水が、井戸の水面に向けて流れてしまっている。テラは唇を噛んだ。
「もったいない……」
 眠っている間に水流が枯れていなくて良かったが、その間に無駄にしてしまった綺麗な飲み水のことを考えると胸が塞いだ。井戸の底に流れ落ち溜まっている微かな水は、常に濁っていて、飲むのに手間が掛かるのに。
 早足で井戸の底を往復し、水でいっぱいのバケツと最後の空バケツとを取り替える。バケツに蓋をしたところで、やっと落ち着いて息が付けた。
(そうだ、サーニャは)
 井戸の入り口から、空を見上げてみる。黒い空に星が光っていた。随分長く眠ってしまったらしいが、時間までは此処からじゃ分からなかった。それでも、少なくとも、三時間は経っているはずだ。
 胸がざわつく。井戸と村との往復に掛かる時間は、二時間で充分のはずなのに……。
「何かあったのかな……」
 空腹を通り過ぎたのか、お腹の感覚があまり無かった。ふらふらして身体に力が入らない。
「サーニャ、お母さんに見つかっちゃったのかな。それでまたぶたれて、物置に閉じ込められちゃったのかなあ。バケツ、持って帰らなかったから……。私のお母さんのところに行きなって言ったのに。ううん、もしかして、うちにサーニャのお母さんが来てたのかもしれない。こんなに遅くなるなんて、絶対何かあったんだよね……」
 壁で揺れる蝋燭の灯を相手に、テラはぽつりぽつりと話し掛けては、溜息をついた。黙っていたら、井戸の底の静寂に飲み込まれそうだ。
「帰った方が良いと思う? …ううん、そうだよね、暗くなった荒野は危ないし。でも、もし、サーニャが物置に閉じ込められたりしてて、それで、私のところに行かれなくて泣いてたりしてたら、私、ここでいつまで待ってたらいいのかな。朝まで? 朝になったら誰か来てくれるかな? でも、朝までなんて、怖いよ……おなかすいたし、寒いんだよ……?」
 蝋燭の灯は、テラの吐息にただ揺れるだけ。返事してくれたっていいじゃない、と蝋燭を恨めし気に睨んでから、テラは冷たい石の地面にしゃがみこんだ。膝に額を乗せて、うずくまる。
 ランタンなんて持ってこなかった。もしこのままサーニャが戻ってこなかったら、真っ暗な荒野を、星月の灯だけを頼りに帰らなくてはいけない。そんなの、考えただけでもぞっとする。夜の荒野は恐ろしい。夜になったら、荒野には、お腹をすかせた狼がうろつき始めるから、絶対に一人で歩いちゃいけないのだ。

 最後のバケツに、縁ぎりぎりまで水が溜まるまで、テラはずっと顔を伏せていた。一人では持ち切れない、と分かっていても、どうしても途中でバケツを外す気になれなかった。もしかしたら、このバケツに水が溜まる途中で、サーニャが帰ってくるかもしれない。そうしたら、四つともちゃんと持って帰れる、そう思って。
 でも、駄目だった。
「……やっぱり、何かあったんだ」
 苦い顔で、最後のバケツの蓋を閉める。待っていても、駄目だ。きっと、サーニャは戻ってこられない。何かあったに違いない。だとしたら、自分だけで帰らなくては。
 ……そうだ。朝までなんて絶対待てない。こんなところで。こんな寒くて暗いところで。
 1時間だけ、頑張れば、村に帰れる。家に帰れるんだ。
「…帰ろう」
 呟いて、立ち上がる。
 蝋燭の灯とバケツを、一瞬だけ見比べてから、両手に一つずつバケツを持った。蓋をきつくきつく締め直して、ロープを持ち手に括り付ける。持ちきれない二つは、壁際に隠すように並べておいた。
 まずは身一つで梯子を登り、井戸を出る。荒野の冷たい風が、テラの短い髪を揺らして吹き抜けた。
「これじゃ、やっぱり、蝋燭なんて持ってっても仕方ないよね。一瞬で消えちゃうよ」
 独り言をこぼして、ゆっくりと重いバケツを引き上げる。残りはまた今度、取りに戻ろう。
 空には、少し膨らんだ程度の半月が掛かっていた。雲ひとつもない星空。暗いけれど、足元くらいはなんとか見える。帰り道も、分かる。大丈夫。一本道だ。途中でサーニャに会えるかもしれないし、そうしたら二人で残りのバケツを取りに帰ってもいいかもしれない。
「…よし」
 自分を励ますように深呼吸すると、テラはゆっくりと歩き始めた。両手に、重いバケツを提げて。





 30分くらい歩いただろうか。バケツを地面に下ろして、痺れた両手を振っていたテラは、ふと、視線をあげた。
 ずっと足元を見て歩いていたから、気が付かなかった。岩山の向こうの空、村の方向の空が、薄っすらと、明るいのだ。テラはきょとんと瞬きをして、慌てて辺りを見回した。道を間違えて、隣の村——テラの村よりもだいぶ大きい——の方へ来てしまったのかと思ったのだ。
「…合ってる」
 目印の岩山のシルエットの形は、自分の記憶の中と何一つ変わっていなかった。あっちが、間違いなく、村の方向だ。
 しばらく考え込んでから、テラはぱっと表情を輝かせた。
 もしかしたら。もしかしたら、父さんたちが地下族討伐から帰ってきたのかもしれない。それで、村中で灯をつけてお祝いをしているのかもしれない。みんなお祝いで忙しくて、サーニャもきっとそのせいで戻って来れないのだ。今にも、父さんが私を迎えに、この道をやってきてくれるかもしれない!
 バケツを引っつかむと、テラは早足で歩き始めた。バケツの蓋に波立った水面が忙しく当たり、ちゃぷちゃぷと音を立てる。転んでしまわないよう慎重に、けれど出来る限り早く早く。早く父さんに会いたくて、その一心でテラはひたすらに歩き続けた。

 そして、大きな岩の角を曲がった時、彼らは突然に現れた。
 二人の大人の人影。暗くて、それ以外は何も分からなかったから、テラは反射的に足を止めて、目を細めた。父さん?と声に出そうとして、飲み込む。聞こえてきた声は、知らない声。村の誰の声でもない。訳が分からなくて立ち竦んでいる間に、道の向こうから歩いてきた彼らも、テラに気づいたらしい。一瞬立ち止まってから、猛然と駆け寄ってきた。あっと思った時には、もう、両肩を掴まれていて、
「おい、これは、水か!?」
 暗闇に、目だけぎらぎらと光らせて、知らない大人が怒鳴った。テラが呆然としていると、もう一人がバケツを乱暴に掴んだ。そのまま、奪われる。
 知らない大人たちが歓喜の叫びを上げて、バケツの蓋を投げ捨て、交互に、むさぼるように水を喉に流し込んでゆく。溢れこぼれた水が、男たちの服に、大地に、暗い文様を描いた。
 テラは動けなかった。残った一つのバケツを手に提げたまま、自分が汲んできた、家族のための水が、あっという間に消えていくのを、信じられない思いで見上げる。
 誰だ、これは。
 一人が、荒い息を吐きながらバケツから唇を離し、横目でテラを見た。正確には、テラが持っているもう一つのバケツを。
「…だめ、」
 硬直が解ける。
 稲妻が走ったように、状況を理解して、テラは絶叫した。
「駄目、駄目えっ、あげない! 絶対にあげない!!」
 逃げなければ。水を守らなければ。バケツを胸に抱きかかえ、元来た道へ走りだそうとする。知らない大人の表情が怒りで歪むのが微かに見えた。
(だめだ、)
 逃げきれない。
 背中に熱い衝撃が叩き込まれ、テラは潰れたような呻き声を上げた。小さな少女が、大人の男に蹴り飛ばされて、持ちこたえられる訳がない。地面に倒れ込む、一瞬に、テラはバケツを両手と腹部で抱え込んだ。雛を守ろうとする親鳥のように身体を丸め、バケツに覆い被さる。
 蓋が弾け飛ぶ音。諸に赤い岩の大地にぶつかった額と肩と、金属を押し込まれた腹部が痛みに呻いた。脳裏に星が散る。何か聞き取れない怒声のあと、横腹にも激痛が来た。蹴られた、とぼんやり思いながら、テラはバケツをさらにきつく抱き込んだ。金属の縁が腹部にぎりぎりと食い込んでくる。大丈夫、大丈夫だ、こぼれてない。私が蓋になる。絶対に渡さない、絶対に守る!
「おいっ、デューク、そんなガキほっとけ! 足跡が残ってるうちに井戸を見つけんだよ、行くぞッ! 早くしろ!」
 舌打ちと、激痛がもう一度。足音が走り去っていくのを聞き遂げてから、テラはゆっくりと顔を上げた。信じられない、悪い夢を見ているような気持ちで、遠ざかっていく二人の背中を見つめる。あっちには、井戸が。村の井戸が。でも、もう、追いつけない。追いついても、何も出来ない。
 無力感のあと、困惑がやってきた。そうだ、そもそも、どうして、あんなーー
「……母さん」
 掠れた声で囁き、跳ね起きた。とたん、蹴られた横腹に激痛が走り、うずくまってしまう。呻きながら、そろそろと身体を起こすと、バケツの形に丸く濡れたシャツに血が滲んでいた。
 泣きそうになって、なんとか踏みとどまる。
 バケツの水かさは半分にまで減ってしまっていた。暗い地面に紛れた本当の蓋を何とか探しだし、指先が白く痛むほどの力できつくきつく締め直す。
 歯を食いしばり、ひとつきりのバケツを胸にしっかり抱きかかえると、テラは走り出した。

 なんであんな知らない大人たちが私たちの井戸へ? どうして? みんなが気づいていないなら、私が教えなくちゃ、早く教えなくちゃ、もし、井戸を取られてしまったら、取られてしまったら、私たちは、

 息が上がり、テラは喘いで、咳き込んだ。蹴られた背中と横腹がズキズキと痛い。転ばないように、バケツの水を零さないように、よろめく足で必死に走り続ける。母さんが、村の人々が、いつも語り聞かせていた言葉が、頭の中でがんがん響いていた。水は私たちの命だから。もしも水が枯れてしまったら、私たちは、
「みんな、死んじゃう……」
 滲む涙もそのままに、テラは呻いた。うわごとのように、繰り返し、呻き続けた。
 やがて、視界の彼方に村が見え始めた。一瞬、安堵したテラの表情が、さぁっと青ざめる。仄明るく、赤みを帯びた星空。闇に紛れて立ち昇る黒い煙。悲鳴をあげて、テラは猛然と駆け出した。
 村は、燃えていた。









「母さぁあんっ、父さああああん!! 」
 叫んだ拍子に煙を思い切り吸ってしまい、テラはがくりと膝をついて咳き込んだ。水を湛えたバケツに、縋るようにしがみつく。頬が熱い。風が吹く度に、熱風が襲い掛かってくる。何処かでガラガラと家の崩れる音がする。
 村は、火の海だった。枯れ草交じりの赤土の煉瓦は乾き切っていたから、炎の熱波に当てられたら一溜まりもない。ひび割れて、崩壊していく。サボテンで編まれた屋根が燃え盛る。地面さえもが燃えている。油が撒かれているのだ。
 よろよろと、走って走って、ようやく視界に現れた自分の家も、炎に包まれていた。眩暈に襲われ、倒れそうになって、なんとか踏み止まる。かみさま、と口の中で呟き、家の裏手に走った。家の裏の地面には、小さな観音開きの扉が嵌め込まれている。開け放つ。食糧貯蔵庫の、微かに黴臭い匂いが鼻を付いた。声の限りに、母さん、と叫ぶと——微かに返事があった。目を見開き、バケツを足下に残して、テラは暗闇の中に飛び降りた。
「母さん! 母さん、母さん、どこ!?」
「——……」
 呻き声を鼓膜が拾う。梯子の脇の壁からマッチをひっつかむと、何度も取り落としながら火を灯した。暗闇が退き、目に飛び込んできた光景に、テラは「ヒッ」と短い悲鳴をあげた。
 床に散乱し、踏みにじられた干し肉の束。天井に干してあったはずの薬草がその上に散らばっている。チーズが入っていた木箱は叩き割られ、中身がほとんど持ち去られていた。水が入っていた小さな木の樽は何処にも無い。壁に飛び散った赤色と、床に倒れている二人の人影の下に広がる赤色と、
「…母さん?」
 どうして二人?
 マッチの火が指先を焼いた。慌てて指を振った瞬間に、貯蔵庫は再び闇に閉ざされた。訳が分からないまま、震える指でなんとか蝋燭に火を灯しなおす。
 そして、蝋燭の火が照らし出したのは、仰向けに倒れた見知らぬ男性だった。目を見開き、薄く開けた口元から赤い筋が滴り落ちている。これが『何』なのか、とっさに理解出来なくて、テラは視線を暗闇の奥に向けた。見慣れたエプロンのリボンが、解けて、床に伸びている。
「——母さん!」
 走り、倒れている人影に縋りついた。体温のぬくもり。安堵が押し寄せ、大声で泣き出したテラの背中に、弱々しく、母の手が触れた。
「………生きてたなんて。いつまでも、帰って来ないから、もう殺されてしまったと思ってたよ……」
 深い溜息をついて、母が呻く。泣きじゃくっていたテラは、びくりと肩を震わせて、顔を上げた。
 地面に倒れた蝋燭が、母の姿を照らし出していた。服は、破れ、真っ白だったはずのエプロンは赤の斑に染められている。床の土も、赤い。赤い染みの上に横たわる母の顔だけが、白く青ざめていた。
「…母さん」
「なんだい」
「怪我してるの」
 母は苦笑して、答えなかった。代わりに、テラの背をぽんぽんと優しく叩いて、言った。
「良いかい。よく聞くんだよ。……逃げなさい、テラ。此処は駄目。此処にいたら必ず見つかる。逃げなさい」
「な、…何、言ってるの? 何言ってるの母さん、全然わかんない…! ……どうして、なんで? なんで逃げなきゃいけないの? なんでみんな燃えてるの!? みんなは、そうだ、サーニャは、」
「もう、みんな、殺されてしまったよ」
 静かな母の声が、その言葉が、信じられなくて、テラはぼんやりと瞬きを繰り返した。首を振る。辛抱強く、母は繰り返した。
「……よく聞きな、テラ。村にいた人のほとんどは、殺されてしまったよ。隣村の奴らにね。さっきまで銃声がずっとしていた。今はもう聞こえないけれど。…そう、奴ら、火までつけてったのかい。ここに隠れててまだ良かったかな……」
 疲れた表情で、母が笑う。
 テラは、もう、何も言えなかった。母の言葉が、幾重にも木霊して、頭の中で渦巻いている。殺された、殺された、殺されてしまった? 誰に? 隣村の奴らにね。 誰に、誰が? …サーニャたちも、みんな?
 帰り道で、バケツを奪い取っていった二人の顔と、大切な人たちの顔が、交互に浮かんでは消えていく。
「うそ、」
 やっと出た声は、震え、掠れていた。唾を飲み込み、首を振って——テラは泣き出した。泣き叫んだ。声が、言葉にならない。身体を震わせるテラを抱きしめて、母はしばらく考えるように空を見つめていた。そして、一度辛そうに目を瞑り、——ぱんっ、とテラの頬を張った。驚きと痛みで一瞬泣き止んだテラの顔を両手で挟み、囁く。
「見つかるよ。大声を出したら、隣村の奴らに見つかってしまう。奴らが今度こそ私たちを殺しに来る。泣くんじゃないよ。殺されたいのかい?」
 それから、言い聞かせるように、呟いた。
「……私たちは、雨が降らないのを地下族のせいだといって、彼らを殺しに行ったろう? 同じことさ。隣村の井戸も、随分前に枯れて……奴らは、私らが水を独り占めしていると思ったんだよ。……だから、私らを、殺しにきた。だから、逃げなきゃいけない。な、分かっただろう?」
「わ、わかんない、全然わかんない…! みんな死んでなんかないよ、そんなの嘘だよ、ねえ嘘でしょ母さん!? 母さんだって、母さんだって、生きてるもん、死なないもん、そうでしょ!?」
「………」
 しゃくりあげ、ぶんぶんと首を振るテラに、母は溜息をついた。静かに、その言葉を口にする。
「多分、死ぬね。このままじゃ」
「…えっ?」
「こんなに血が出てるんだ、当たり前じゃないか?」
 真っ青な顔で笑う母を凝視して、言葉を反芻するうちに、テラはがたがたと震えだした。微かに後ずさったテラの手を掴み、母が言う。
「テラ。あんた、助けを呼びに行けるかい」
「たす、け」
「このままじゃ、多分、母さんは死ぬ。誰かに助けてもらわなきゃいけないんだよ。……まだ誰か生きてる人がいるかどうか、わからないけど。……誰か、生きている人を探して、助けてくださいって頼むんだ。出来るかい」
 テラが、言われたことを理解するまで、母はじっと待っていた。
「……私が、探しに」
「そう。外は危ないし、怖い。ここにいてもいいんだよ。多分、母さんは、死んでしまうけど、それでいいならね」
「……っ」
 低い声で凄む母に、テラは思いっきり首を振った。絶対嫌だ、母さんが死んでしまうなんて絶対に嫌だ!
 ふっ、と表情を緩めて、母は言葉をつけたした。
「…もしかしたら、サーニャの一家はまだ生きてるかもしれない。隣村の奴らが襲ってきたら大変だなんて言って、随分前から地下壕を掘っていたから。サーニャの家に行ってごらん。それで、もし、誰か生きていたら……助けてくださいって頼むんだ。いいね」
 ごくりと唾を飲み込むと、テラは頷いた。母は安心したように微笑んで、テラをぎゅっと抱きしめ、言った。
「頼んだよ、テラ。大丈夫。あんたは強い子だから」
「…私が、助けてくれる人を、呼んできたら、母さん、死なない?」
 泣き叫ぶ一歩前でなんとか踏み止まりながら、テラが呟くと、母は頷いた。
「……わかった。待ってて。絶対に、待っててね、母さん。絶対だよ。死んじゃ嫌だよ」
「はいはい、頑張るよ。…そうだ、テラ。これを持っていきなさい」
 よろよろと立ち上がったテラに、母はなにか黒いものを差し出した。受け取ると、ずしりと重い。冷たい金属の感触。
「これ……」
「絶対に筒の中をを覗き込むんじゃないよ。…もし、外で、知らない大人に見つかったら、すぐに。いいかい、すぐにだよ。この筒の先を相手に向けて。ここの引き金に指をかけて、思いっきり握りなさい。すぐにだ。何も考えちゃいけない。わかったね」
「…わ、わかった……」
「さ、行っておいで。出来るだけ早く頼むよ」
 とん、と背中を押される。頷いて——梯子に足を掛けたところで、何かを思い出したようにテラは慌てて母のところに駆け戻った。
「水…あのね、水、汲んできたの」
 口をあけて、母が目を瞬いた。テラは踵を返して梯子を駆け上がると、バケツを抱えて戻ってきた。きつく絞めすぎた蓋を叩いて開ける。ちゃんといっぱいまで汲んだのに、半分まで水かさの減ってしまったバケツ。母の隣に、ゆっくりと降ろして、ぼそぼそと呟く。
「遅くなっちゃってごめんなさい。その、サーニャの、お手伝いしてたの。……あっ、そうだ、サーニャ、サーニャが母さんのところに来なかった?」
「…いいや、来てないよ。そうかい、ちゃんと汲んできてくれてたんだね。最高のご馳走だ。ありがとう、テラ。嬉しいよ」
 母の笑顔に、テラは照れたように微笑んで——我に返ったのか、今度こそ慌てて外に駆け出していった。「いってきます」の一言を残して。
「…やれやれ」
 足音が遠ざかり、テラが行ってしまったのを確信してから、母は一度深い溜息をつくと——表情を歪めた。張り詰めていた気が緩んだとたんに、脇腹の激痛が押し寄せてくる。…まだ自分は運が良かったのだろう。急所を撃たれていたら、テラにもう一度会うことも出来なかった。もし、あの子が、ここで死んだ自分を見つけていたら——想像もしたくない。
 酷い賭けだった。もし、誰か、本当に生き残っていたとして。それが分別のある大人で、母さんを助けてと言い張るテラを無理にでも保護してくれるなんて、そんな可能性、ほとんどないだろう。ただ、ここにいては、その可能性は0だ。私はもうすぐ死ぬ。私では、テラを守れない。火が落ち着いたら、隣村の男達が家を一つ一つ検めに来る。ここに死んでいる私と隣村の男を見つける。その時、彼らが私をどう扱うかは……なんとなく、想像がつく。それをテラに見せる訳にはいけない。それに、そんな光景を見たテラが、じっと物陰に潜んでいられるはずもない。飛び出して、…殺されて、終わりだ。
(ああ、しまった、弾を二発も使うんじゃなかったよ…。あの子が、肝心な時に弾切れなんて起こさないと良いんだけど。どうして一発目を外してしまったんだろう……あんな近距離で……)
 呻きながら、かろうじて上半身を起こすと、バケツを引き寄せた。一口だけ、口に流し込む。随分ぬるくなってしまっていたけれど、久しぶりの水が、喉を滑り落ちてゆく。倒れこむように、もう一度地面に横たわると、目を閉じた。
(…充分だ)
 もう、充分だ。せめて最後に、あの子だけでなく、夫にも会いたかったけれど。それはきっと無理な願いだ。……これはきっと、地下族の一部族を滅ぼしたこの村への、報いか、罰なのだ。多分、村の男達は、地下族を皆殺しにして、今頃、意気揚々と帰路を辿っているに違いない。彼らが帰ってきた時に、迎えてくれる者が誰もいなかったら……今度は、誰に憎しみを向ければいいのか。滅ぼした地下の民の一族を呪うのか。それとも隣村の、地上の民か。
「……もう、…」
 意識が混濁していく。
 無理やり瞼を押し開けると、天井がぐるぐる回っていた。暗闇に閉ざされているはずの部屋に、光がちらついて見える。何度か、喘ぐように呼吸を繰り返し、口の中で誰かの名前を呼んでから、彼女は囁いた。
「…死ぬんじゃないよ……強く、生きなさい、……」
 真っ暗になり、やがて、何も分からなくなった。







 拳銃を胸に抱え、テラは走り続けていた。
 燃え盛り、崩れ落ちた家並みのせいで、方向感覚がおかしくなる。それでも必死で、サーニャの家を目指して、走り続けていた。
 途中、何度か、人影を見かけたような気がしたけれど、すぐに煙と炎に紛れて分からなくなった。誰か、誰か、生きている人、母さんを助けてくれる人。煙が目に沁みて、涙が止まらない。めちゃくちゃに顔を拭いながら、走って、走った。誰か、と叫びたいのに、叫べなかった。煙が痛くて、そして、隣村の誰かが恐ろしくて。
(…母さん)
 悪い夢だったらいいのに。
 痛い煙も、熱い風も、家が崩れていく音も、みんな夢で、目を覚ましたら、母さんは怪我なんかしてなくて、馬鹿だねぇって笑って、頭を撫でてくれる。きっとそうだ。きっとそうなんだ……
(でも)
 もし、夢じゃなかったら。助けてくれる人を、私が見つけられなかったら、母さんは、死んでしまう……
 怖がっている場合じゃ、ない。
 ぜぇぜぇと、肩で荒い息をしてから、テラはぐっと唇を引き結んだ。煙を吸い込まないように、地面に伏せて、声の限りに叫ぶ。
「だれ、か、助けてぇええッ!!」
 パンッ、と乾いた音がした。
 一瞬遅れて、自分の背中から、壁が崩れる音。
 足音。
 崩れていく土煉瓦を呆然と見つめていたテラは、ゆっくりと振り返った。道の向こう、煙を隔てて、誰かが立っている。…誰か、わからない。
 声も出せずに、人影を凝視していると、ふいに風が吹いた。一瞬薄まった煙の向こうに見た人影の、頭には、大きなリボンが揺れていた。煤けて、破れていても、見覚えのある、リボン。彼女がいつも身につけて、手作りなのだと自慢していた……
「…ルタ、おばさん?」
「……、テラちゃん……?」
 二人とも、声は掠れきっていた。人影が数歩前に出て、煙の壁を抜けた。手には拳銃。ルタおばさんは——信じられないものを見るように、自分の手の中で硝煙をあげている拳銃を凝視してから、泣き出した。
「よ、よかったっ、生きていてくれて良かった! ごめんなさい、テラちゃん、私、なんてことっ……」
 駆け寄ってくる。生きていた。ルタおばさんが生きていた。安堵で泣き出しそうになりながら、テラも跳ね起きると、駆け出した。ルタおばさんの、大きなお腹に抱きつこうと両手を広げて——

パンッ

 突然、天地が引っくり返った。自分が、地面に倒れていることに気づくまで、1秒。動けないことに気づくのに2秒。自分の上に、ルタおばさんが覆いかぶさっているからだと気づいた時には、3秒が過ぎていた。
「…おばさん? ねえ、あの、ルタおばさん? どうし……」
 下敷きになった腕を動かすと、なにか、ぬるりとしたものに触った。引っ張り出して、炎の明かりにかざして見ると、何故か腕が真っ赤だった。ぽかん、と瞬きをする。
「え……?」
 腕から、赤い雫が顔に落ちてくる。
 何が起きたのか理解するよりも早く、唸り声が聞こえた。
 ざりざりと、引きずるような足音。なんとか上半身を起こし、そちらを見ると、片足から血を滴らせた見知らぬ青年が、燃え盛る家を後ろに、立っていた。手には拳銃。そして硝煙。
(ああ、あ)
 理解するには充分すぎた。
 全身に寒気が走り、汗が噴出す。心臓が痛いほど早く脈打ち、耳の中が鼓動の音でいっぱいになる。熱い風が目を焼くのも忘れて、テラは、彼の手の中の拳銃を凝視した。
「ころしたの」
 自分の声じゃないようだった。テラの声に、青年はびくりと身を竦め——声の主が、小さな少女だと気づくと、一瞬、無表情になった。そして、笑いだした。爆発したように笑いだした。青年は泣いていた。
「…殺したのだって!? ああ、殺したさ、オチビさん! よくも、まあ、そんなことを言ってくれるなぁ!! あははッ、ひぃ、笑いが止まんねぇや!」
「なんで…なんで笑うッ、人殺し、人殺し人殺し人殺しッ!! あんたがみんなを殺したの!? こんなっ…こんな、みんな殺してっ、なんで!?」
「ふざけんじゃねぇよ。俺らの村の、は、半分を、俺の家族を、全員っ、殺したくせに! 汚らわしい地下の民(ティ・ルーゾ)め!」
 裏返った声、言葉が、理解出来なかった。一瞬、怒りよりも困惑に呑まれて、テラは青年を見上げた。
「…何言ってるの? 私たちは地上の」
「俺らの名を汚すなティ・ルーゾ!! お前らが! 俺たちの井戸から水を奪ったんだ!独占したんだ!! 俺の、母さんも妹も弟もみんなみんなっ、乾きに苦しんで死んだッ、お前らが、殺した!! 許さない、全員殺してやる、水を返せ、水を返せ、悪魔、水を返せ——!!」
 青年は今や絶叫していた。青年の拳銃が、銃口が、真っ直ぐにテラを見た。テラは、目を見開き、震えて——ぎッ、と青年を睨み上げると、叫んだ。
「嘘だ!! 私たちは地上の民、私たちがそう! こんな、酷いことをする奴が地上の民なはずないっ、あんたたちが地下の民なんだ!!」
「——はぁ?」
 引き金を引く途中で指が止まる。表情も消えた。青年は無言でテラに詰め寄ると、銃口をテラの額に突きつけた。ほとんど殴るような勢いだった。のけぞったテラの前髪を掴み、青年は掠れた声で笑った。
「ふざけんな。俺たちを、俺たちの村を侮辱したら、許さな」
 声は銃声に遮られ、消えた。
 青年は、微かな驚きの表情を浮かべたまま、数歩後ずさり、ゆっくりと傾いた。喉に空いた穴から吹き出した血が不思議な弧を描いた。背中が燃え盛っている小屋にぶつかって、柱が折れた。仰向けに倒れた青年の上に、崩壊した小屋の残骸がガラガラと覆い被さって、その姿を永遠に飲み込んだ。
 テラは、上半身を起こし、右手に拳銃を握り締めたまま、その光景を見つめていた。銃口からは硝煙が静かに立ち昇っている。あんなに熱かった頭の中が、すぅっと冷めていく。瞬きを繰り返すうちに、身体が震え始めた。——寒い。寒い。……気持ち悪い。
 ぐるり、と世界が回って、テラは後ろに倒れた。
 ああ、どうしよう。
 気持ち悪い、気持ち悪い。母さん。そうだ、母さん、助けなくちゃ。母さんを助けなくちゃ……
 身体はもう動かなかった。ルタおばさんの下で、テラは、完全に意識を失った。
















「テラさん?」
 遠慮がちな声で名前を呼ばれ、テラははっと顔をあげた。
 カウンター席に座った旅装の青年——先ほど、タータと名乗ったばかりの青年が、気遣わしげに首を傾げている。
 午後の日差しが差し込む、小さな酒場で。グラスを磨きながら、自分は、この町の由来を話していたのだった。その途中で、随分長く記憶の中に沈んでしまっていたらしい。苦笑いを浮かべてから、テラは小さく肩を竦めた。
「ごめんなさい。……ええと、どこまで話したんでしたっけ?」
「この町が、昔はもっと小さな村だったというところまでですね。発展が始まったのは、この、地下水が豊かな土地に移ってからだとも聞きました」
「そう、…本当に、この町は争いごとばっかりだったんですよ。一度それで、ほとんど全滅しかかって、生活が立ち行かなくなって、仕方なしに全員で土地を移ったんです。だからですかね、みんな気性が荒くって」
 笑いながら、グラスに水を注ぐと、テラは侘びるように頭を下げた。さっき、外の通りで、たまたま通り縋っただけのタータは、見事に若者同士の喧嘩に巻き込まれていたのだ。…いや、正確に言うと。やせっぽちの少年が、年上の若者にいじめられているところに通りかかったタータが、仲裁に入ろうとして、逆に矛先を向けられていた、と言うべきか。外が騒がしいことに気づいたテラが、エプロンの下に提げていた拳銃をちらつかせつつ凄んだだけであっという間に逃げていったので、別にどうということはなかったのだが。
「さっきは、本当にありがとうございました」
「いいんですよ。あんなところで喧嘩されたら、お客さんが逃げちゃいますし。ああいうのを何とかするのも、私の役目ですから」
 ぼやきながら、テラは横目でカウンターの奥を見やった。この酒場、兼、宿屋の女主人は、今日も昼間から酒を煽ってカウンターに突っ伏し、爆睡している。まあ、その方が静かでいいか……。
「そういえば、タータさんはどちらからこの町に?」
「ああ、ええと、ここの街道を南に下ったところの町にしばらく住んでいたので、一応、そこからです」
「マティーニの町から? あそこの方が居心地が良いと思いますけど、なんでわざわざこの町に」
「もともと、旅暮らしなんです。前はもっと南の、フィノの町にいました」
「……北へ旅してるんですね」
「そんな感じです」
 笑って、美味しそうに水を傾けるタータを見つめ、テラは静かに立ち上がった。数年間、この酒場(兼、宿屋)で働いてきて分かったこと。相手が理由を話さない時は、興味があってもそれ以上を聞かない方がいい。そのまま、カウンターの奥に引っ込もうとして、ふと、思い出したように振り返る。
「あ、あとひとつだけ。タータさん、この町に着いたのはいつですか?」
「え、…ええと、午後の1時くらいだったかな?」
「今日のですか?」
 不思議そうな表情を浮かべ、タータが頷く。
「じゃあ、今日の宿もまだ決まってなかったりとかしちゃったりして」
 おどけた調子でテラが付け足した言葉に、ようやっとタータも合点がいったらしい。やられた、と言うように苦笑して、膝の上のぼろぼろな鞄をぽんぽんと叩く。
「先に言っておくと、僕はかなり貧乏ですよ。一晩おいくらですか?」
「うちの宿はこの町でもベスト5に入るくらいの勢いで安いですよ。個室一晩で250ジンです。夕食は別会計ですけど、朝食なら無料で出せます。シャワーも、まあ貧弱なやつですけど水が出ますし、10分までなら無料です。長期滞在ならもうちょっと安く」
「宜しくお願いします」
 笑いながら頭を下げたタータに、笑顔と会釈を返して、テラはカウンター奥に引っ込んだ。帳簿やらなにやらを引っ張り出しつつ、胸の中だけで呟く。ごめんなさい、実はこの町、宿屋がうち含めて5つしかなくって、まあ確かにうちはほどほどに安いけど、下から3番目です。
 自分でも呆れて笑ってしまう。まさか、あの日のことを、この町の成り立ちのひとつとして、グラスを磨きながら、旅の人々に語るようになるなんて。
 あの日から、もう、10年も経ったのだ。
 どういう運命の悪戯か、村が燃え落ちたその朝に、地下族討伐に行っていた男達が帰ってきて。もっと酷い争いになって、結局、隣村が先に滅んで。討伐した地下族が住んでいた洞窟の傍には、地下水がたくさん流れていたから、そこに村ごと移って。再建して。
 あの日、生き残っていたのは、テラを含めて20人。帰って来た働き盛りの男達が60人。もともとの人口が180人くらい? 半数近くが命を落として、それで、よくまあ、持ち堪えられたものだ。
 豊かな地下水を足がかりにして、旅人や行商人たち、同じように土地を移ってきた遠くの村の人々を新しい村の一員として迎えながら、村は町と呼べるまでに大きくなった。今では、10年前の悲劇を覚えている人のほうが、この町にはきっと少ない。それでいいのだ、と思った。10年前に争いがあった。そして村は一度滅びかけた。けれど、再興した。……これだけ、伝わっていけば、充分だ。語るのに10秒もかからない。

 あの日。ルタおばさんの死体の下で目覚め、最初に目に飛び込んできた美しい青空のことも。焦げ臭い空気も、聞き覚えのある声、大人たちの悲痛な叫びも。自分を見つけてくれた近所のおじさんが、吼えるように泣いていたことも。冷たくなっていた母さんも。地下の民に殺されて、帰ってこなかった父さんも。みんな、いつか、忘れてしまおう。そんなものよりも、私が覚えていたいのは、母さんが誕生日に作ってくれたシチューの味や、父さんに肩車されて見た世界や、眠るときに頭を撫でてくれた母さんの手に、夕暮れの帰り道で繋いだ父さんの手なのだから。

 チリンチリンッ、と軽やかな音をたてて、ドアが開く音がした。
「テラ、ただいまぁー! ごめんね遅くなっ…あれ? お客さん?」
 やっと帰って来た。なんで食材の買出しに2時間も掛かるんだろう。……まあ、いいか。いつものことだし。
「おかえり、サーニャ。今、帳簿書いてもらうとこだけど、お客さんだよ。奥の個室、掃除、宜しくね」
「あいあいさー! こんにちはお兄さん、調理担当のサーニャです。うちの夕飯、すっごく美味しいから、期待しててくださいねっ」
「その調子で掃除もばっちりお願いできると嬉しいんだけど」
「うっ、ぐ、大丈夫だよ、もう、ひどいなぁー」




 この時は、まだ。
 一度、回転を止めた物語の歯車が、再び動き出したことに、気づくはずもなかった。


>>