真っ暗だと思っていた噴水広場は、月明かりの夜のように、うっすらと蒼く照らされて、闇の中に浮かび上がっていた。
 元は規則正しく並べられていた石畳や石柱が崩れ、あちこちで地面が剥き出しになっている。かろうじて原型を留めている噴水に、水の気配はなかった。時間の止まったようなその広場の——崩れかけた噴水の傍、あの夢の中と同じ場所に——彼は、佇んで、見えない空を見上げていた。
 黒い髪、高貴さを感じさせる蒼い服、翻る空色のマントに金糸の刺繍……。クリスケが夢の中で見た姿と何一つ変わらない。ただ、その身体が蜃気楼のように「霞んで」いて、ぼんやりした蒼い光に包まれているということを除いては。

 その場でもしもクリスケが回れ右をして逃げ出していたら、物語はここで終わっていただろう。
 けれど、クリスケは動かなかった。立ち尽くして、その人のことをじっと見つめた。握り締めた手の平に爪が食い込む。足を引き摺って走りまわったあの夢の中と同じように、走る痛みは本物だった。


「(——あの夢の)」


 続き?


 思考が停止する。夢と現実との境目が分からなくなる。真っ白な混乱の中で——ほぼ無意識に、クリスケは彼の名前を呼んでいた。

「カーレッジ?」

 彼が、弾かれたように振り返った。見開かれた目と、クリスケの視線がぶつかる。霞んではいても、夢の中で会ったあの人の、蒼い瞳だった。

 少しの間、ためらってから。
 クリスケは、そっと彼の方へ歩き出した。急に近づいたら、風に掻き消されるろうそくの火のようにいなくなってしまうんじゃないかという程に、彼の姿は霞んでいたのだ。
 ——実際、彼自身もう歩くことが出来ないようだった。近づいてくるクリスケを、ぴくりともせずにじっと見返している。
 サンダルが石畳を擦る音が、広場に響く。手を伸ばせば触れるというところまで来て、クリスケは立ち止まった。薄っすらと透き通った彼の身体の向こうに、広場の景色が見えている。
「(——あ)」
 改めて間近で彼を見上げて、気づいた。微かに伏せられた彼の瞳を見つめて、クリスケは瞬きをする。
「(夜の、海の色だ……)」
 その瞳は、何故か悲しそうだった。
 しばらくその瞳を見つめている内、やっと、自分があの時彼に告げた言葉を思い出して、クリスケは慌ててぺこっと頭を下げた。そう、これを一番最初に言わなきゃいけなかったのに。
「あの時は、ありがとうございました」
『…………』
 微かな溜息の音。
 それに被せるようにして、彼が口を開いた。
『…まさか、本当に来るとは思わなかった』
 水の中で聞くかのように、彼の低い声は何処か遠くから聞こえ、くぐもっていた。
 幽霊(そうとしか思えない)の声ってこんな風に聞こえるんだなあ、なんてぼんやり考えながら、クリスケは小さく頷く。
「オイラも……まさか会えるなんて——会ったことも話したことも全部、夢だって……それで……」
 ふと、言葉の途中でクリスケの声が消えた。ずっと伏せていた目を、不思議そうに上げた彼を——カーレッジを見つめて、正確には彼の服の胸あたりを見つめて、青ざめる。
 もう、見間違えるはずもなかった。
 翼を広げた白鳥と、その周りを縁取る柔らかな蔦——霞んでいてよく見えなくても、金糸で丁寧に刺繍されたその紋章は、間違いなく、アリウスの王しか身につけることが許されていないもので——
「ごっ、ごめんなさい!…じゃなくてえっと、すいません! オイラまた敬語忘れて」
『……ああ』
 合点が行ったのか、カーレッジが表情を緩めた。わたわたと慌てるクリスケを片手で制して、静かに言葉を続ける。
『構わない。好きに呼んでくれ』
「でも、」
『敬語など気疲れがするだけだろう? それに…私はもう、王ではないんだ』
「………」
 考え考え首を傾げてから、クリスケは頷いた。
「じゃあ、カーレッジって呼ぶよ。オイラのこともクリスケでいいから」
『ああ』
「……ついでにひとつ聞いてもいい?」
 質問が来ることを分かっていたのだろう。静かに頷いたカーレッジを見上げて、クリスケは少しだけ視線を彷徨わせた。
「これも……」
 これもまた、夢なんだよね?

 そう問いかけようとして、クリスケは言葉を飲み込んだ。そんなこと聞いたって何になるっていうんだ。
 しばらく考えるように口を閉ざしてから、やっとクリスケは顔を上げた。そして、思いきったように問い掛ける。
「嫌な質問だったらごめん。…カーレッジは……、幽霊なの?」
 広場を照らす蒼い光が、微かに揺らいだ。
 カーレッジは一度「構わない」と言うように首を振ってから、頷いた。じっとカーレッジを見上げるクリスケからほんの少しだけ視線を逸らして、淡々と続ける。
『大雑把に言ってしまえばそうなるし、正確にいえば違う——が、…そうだな。私は幽霊のようなものだと思う』
「どうし…えっと…その、どうしてここにいたの? 確か…夢の中で会った時も、カーレッジ、ここに立ってたから……」
『それは……』
 ふと、カーレッジがため息をついた。逸らしていた視線を、クリスケの方へ戻す。
『……話すと長くなるぞ』
「…みんなが起きるまでに帰ればいいから、平気だよ」

 (これがもし現実だっていうのなら、だけど。)

 しばらくの間、カーレッジは考え込むように口を閉ざしていたが、やがて片手を噴水の傍の倒れた石柱の方へ差し伸ばしてみせた。長くなるから座ってくれ、ということらしい。とすん、と腰を降ろしたクリスケを見下ろして——カーレッジ自身は、足が殆ど霞んで消えてしまっているせいか、座ることは出来ないようだった——カーレッジは口を開いた。
『影の女王のことは、知っているか?』
「名前だけ……。オイラ、ついこの間まで、寝てたから」
『いや、恐らく知っていると思う。お前はアリウスの民だろう? ひと月と三日前——あの日に、このアリウスの街を徹底的に壊していったのが、その影の女王なのだから』
 響く高笑いと、空を切り裂いた赤い雷と、打ち砕かれた城の尖塔。
 クリスケが空色の目をびくっと見開くのを、カーレッジはじっと見つめていた。そして、語りだす。

『あの日に、私もまた彼女の雷に打たれて命を落とした。彼女の雷は、人の身体と魂とを切り離す剣のようなものだ。常人なら一発か二発受けただけで身体が粉々になる。王家紋章の守護伝説や、星の加護を伝える昔話…様々な言い伝えがアリウスには伝わっているが……実際は、彼女の雷の前には何の力も無かった。私も—— 一瞬の衝撃があって——それで終わりだった』
「………」
 黙って耳を傾けているクリスケの肩が、カーレッジの話が進むに連れて強張っていく。少しの間言葉を切り、カーレッジは瞼を伏せた。
『彼女は——影の女王は……何と言えば良いのだろうな。……少なくとも…彼女はこの世界の存在ではない。どの世界の存在でもない』
「…え?」
 流石に不意を打たれたらしい。ぽかんとした表情で、クリスケが顔を上げた。
「それ…おとぎばなしのこと? この世界の誰も見つけられないところには、たくさんの別の世界があって、色んな人が住んでいるって。神様が住んでいる世界もあって、悪い魔物しか住んでない世界もあって、オイラ達と同じような人が住んでる世界もあって…時々、その別の世界から誰かがこっそりやってきているんだよって……うっかり知らずについて行って別の世界に迷いこまないように気をつけなさいって…」

 それは、この国に昔から伝わるお伽噺だった。その話を知らずに大人になることは不可能なくらい、様々な場所で語り継がれてきたファンタジー。クリスケも、家の兄弟たちと一緒に、何度もその話を聞いていた。夕食を食べながら、時々は眠る時の枕話として。
 慣れ親しんでいた物語だけど、でも、それはお伽噺だ。どうしてこんなところでお伽噺が出てくるのかクリスケにはさっぱり分からなかった。
 そんなクリスケに、カーレッジは首を振る。
『その話は…確かにお伽噺だが、半分は、事実なんだ。私も、こんなことにならなければ……信じることは出来なかったろうが……』
 しばらく、考えるように片手を額に添えてから、カーレッジは深呼吸をするように肩を落とした。吐息に吹かれたように、彼を包む蒼い光が少し薄くなる。表情に、疲れの色が強く滲んでいた。
 流石に心配になって、クリスケは立ち上がろうとした。質問をしたのは自分だ。もしかしなくても、カーレッジがあまり話したくないところまで足を踏み込んでしまっているかもしれない。
「ごめん、オイラが変なこと聞いちゃったから——」
『…違う、そうじゃない。大丈夫だ』
 ひとつ溜息をつくと、カーレッジはもう一度口を開いた。
『とにかく、彼女は…これまで、様々な世界を渡り歩いては、手当たり次第に全てを滅ぼしてきた存在だ。世界が滅びると、また次の世界へと渡る。そして——今回降り立ったのが、私たちの世界だったんだ』
「………」

 一度、途方に暮れたように視線を彷徨わせて、クリスケはゆっくりと瞬きをした。消化しようとしても、言葉が少しも呑み込めない。のろのろと、首を振る。
「……どうして?」
『分からない。誰にも』
 しばらくの間、沈黙が降りた。
 見上げていた視線を外して、クリスケは今自分が座っているひび割れた石畳をじっと見つめた。言葉の渦が、頭の中をぐるぐる回っている気がする。さっぱり理解出来ない、それこそ夢物語のような、信じられないようなものばかりなのに——
「(あの目……)」
 ぞく、と悪寒が走って、思わず自分の片腕を抱きしめる。
 城が雷に砕かれた瞬間、確かに見てしまったあの黒い人影の目は、あの真っ赤な目は、明らかに、ひとの目ではなかった。もし、あれがその「影の女王」だと言うのなら——理解出来ないのに、納得出来てしまうような気がするのは、何故なんだろう。
『…それでも』
 カーレッジが、口を開いた。
『それでも私は、街と人とを守ろうと思った。……、それが未練だったんだろうな。いくつかの代償を払って、私はこちらの世界に帰ってきた。が…私はもう、この噴水を拠り所にして、なんとか世界に留まっていることしか出来なかった。私一人では、行動することすら、儘ならなかった。誰かが私を見つけてくれることを、待つしか無かった』

 ふ、とカーレッジが息を継ぐように言葉を切って、クリスケは我に返った。改めて、カーレッジのことをまじまじと見上げる。その蒼い瞳は、憂いを帯びてはいても、凛としていた。王の瞳だった。
「それでずっとここにいたの?」
『ああ』
「えっと…一か月も? 誰にも見つけてもらえないで? よくは知らないけど、この広場だったら、今でもそれなりに人は通るんじゃ……」
『………』
 カーレッジが首を振った。そして、苦笑する。
『もし今誰かがここを通ったとしても、お前一人が誰も居ない空中を見上げているようにしか見えない。そもそもこの広場自体が、ただの暗闇にしか見えない』
「…え」
『本当なら、お前にも私のことなど見えないはずだった。あの時お前が、夢の中で……アリウスとあちらの世界の……死者の世界との狭間に迷い込んできて、私のことを知ってしまうことがなければ』
 夢で見た光景が、鮮やかに蘇る。
 しばらくの間、何かを言おうとしては失敗してから、クリスケはようやくぽつりと呟いた。
「……どうして」
『私が払った代償は』
 淡々と、カーレッジは続ける。
『世界中の人々の記憶から、私という存在があったことを消すことだったからだ。私が死者の理を歪めても、出来るだけ支障がないように。誰にも私という存在を認識されないように』

 頭の中で、パズルのピースがかちりと嵌ったよう気がした。兄弟たちが話していたことや、色んな事との間に感じていた違和感が、すっと溶けて消えていく。消えて行ってしまう。
 しばらく呆然とカーレッジを見上げていたクリスケは、やがて、くしゃりと笑った。迷子の子供のような、途方に暮れた表情で、瞬きをする。
「……オイラ今、ちゃんと、起きてるんだね?」
 沈黙したまま、カーレッジが静かに頷いた。
「夢じゃない……」
 俯いて、クリスケは自分の手をじっと見つめた。握り締めてみると、痛かった。随分長い間クリスケは黙り込んでいたが、やがて、顔を上げた。
「オイラに何か、手伝えることはある?」
 瞳に力が戻っていた。強い眼差しでカーレッジを見返し、立ちあがる。
「あの時カーレッジがオイラを助けてくれたのは、夢だけど、夢じゃなかったんだよね? だったら、今度はオイラの番だ。カーレッジが今は困ってるんだから」
『…………』
 迷いのないクリスケの言葉に、一瞬、カーレッジは言葉に詰まったように見えた。けれどすぐに、『すまない』と一言だけ呟いて、微かに首を振る。
『頼みがある。私を、一度、地上へ連れて行ってほしい。ただ、私は…今となっては、何かに留まっていなければ存在すら出来ない。…地上へ行くまでの間、私を、お前の身体に留まらせてくれないか』
「うん、いいよ」
 あっさりと。
 差し出された右手に、今度こそカーレッジは目に見えて躊躇った。
『……私は』
 瞼を伏せて絞りだす声が微かに、震えている。
『私は今、お前を、たまたま私を知ってしまっただけのお前を、巻き込もうとしているんだぞ? 亡霊が生者に取り憑かせてくれと頼んでいるのと全く変わらないんだ』
 本当に分かっているのか、と問うてくるカーレッジの視線に、クリスケは困ったように首を傾げた。
「だってカーレッジ、お話に出てくるような悪い幽霊じゃないでしょ? 街のみんなを助けたくて戻ってきたのに自分じゃ動けないから、困ってたんでしょ? 街のみんなが大事なのはオイラも一緒で、それで何か出来るかもしれないのに、なんで断らなきゃいけないの」
『…………』
 ぽかんと放たれたクリスケの言葉に、今度はカーレッジは言葉に詰まるというよりは言葉を失ったらしかった。そんなカーレッジの様子に気づいているのかいないのか、右手を差し出したままのクリスケが、ふいに「あ、でも」と言って表情を曇らせた。
「どうやったら地上に行けるのかとか、オイラ全然知らないんだけど。カーレッジは知ってる?」
『…道だけならば、知っているには知っているが……』
「なんだ、じゃあ心配ないね」
 ぱっと笑顔を浮かべたクリスケにつられるように、やがて、カーレッジが微かに苦笑した。
 クリスケの右手に、カーレッジの右手がゆっくりと重なる。ひやり、と冷たい空気がクリスケの指先に触れた。
 寒さで凍えた人の手みたいだ、なんて思った次の瞬間、カーレッジの姿はもう夢のように描き消えていた。そして入れ替わるように、クリスケの右手の中で、透き通った硝子のペンダントが輝いていた。





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