太陽の光が奪われた世界。寒く、真っ暗な闇に閉ざされた世界はしかし、あちこちの崩れた家々からこぼれる光で、随分わいわいと賑わっていた。
 闇色に染まった城の、その尖塔から突き出した小さなテラス——そこから見下ろしたアリウスは、破壊されてなお、光を失っていない。闇の中で灯る星のように、その輝きを増してさえいる。
 しかし——
 腹立たしいはずの光景を前に、影の女王は微笑みを浮かべていた。
 
 テラス…いいや、バルコニー、と呼んだ方が正しいのかもしれない。豪奢な造りのそのバルコニーには、細かい装飾を施された窓枠が、いくつもいくつも並んでいた。窓を通して切れ切れに見通せる城の中は、ワインレッドの絨毯と壁紙が敷き詰められ、黄金のほの暗いランプがいくつも灯っている。微かに見える部屋の隅には、きざはしと、一際豪華な造りの椅子が鎮座している。其処は、主を失った、玉座の間だった。

 影の女王が何か呟いたとたん、バルコニーを冷たい風が吹き抜けた。女王の、細い背中をたっぷりと覆う髪がさらさらと揺れる。ふいに、彼女はその内の一本をついと引き抜くと、、宙へ放った。一瞬風に流された後、一筋の髪は小さな蝙蝠へ姿を変える。風を打って飛んで行った蝙蝠を、視線だけで見送って、女王は再び城下のアリウスを見下ろし始めた。
 輝く灯りたちは、あまりにも小さい。
 女王は、くく、と肩を震わせた。
 これから繰り広げられるだろう、悲劇に満ちたシナリオをいくつもいくつも思い描く。
 それはまるで、楽しみで仕方がない旅行の計画を立てるかのようだった。ざわめきが胸に込み上げる。
 唇が勝手に微笑みの形に歪むのをそのままに、影の女王は空を——空があった場所を——振り仰いだ。

 空からアリウスを守護していた星の力を引き摺り降ろし始めてから、今日で3日。それももうすぐ完了する。それを最後に、この世界で女王を妨害できるものはいなくなる。
 岩盤の彼方、空の彼方で、星の光がもがいている姿が、見えた。








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「—— うっしそれじゃあーっ、クリスケの無事快復とー、俺らがこれで無事全員揃えたことを祝って! 今日は久しぶりに明るく行こうぜみんなぁ!!」
「「イエッサー!!」」

「かんぱぁ——い!!」

 暗く閉ざされた狭い部屋に、楽しげな音色が高らかに響き合った。
 コンカン、と鳴るのは道にゴロゴロしている流木をくり抜いて造られた急ごしらえのマグカップ達だ。時々、カァン、と金属を打ち合わせたような澄んだ音も鳴り渡る。

 崩れかけた建物を、材木やら石やらで補強してつくられたその『家』には、差し込まない光の代わりに、壁のいたるところに蝋燭や魔法灯が灯されていた。幻燈のようにちらちらと揺れる世界の中で、笑い声が反響して、響き合う。
「クリスケえ、生きてっかあー?もし具合悪うなったらすぐ言うんやでえー!」
 部屋の端から飛んだガラガラのボーイソプラノに、すみっこの長椅子に座っていたクリスケは手を振って答えた。
 ——目が覚めてから、3日が経った頃のこと。
 その頃にはもうかなり元気になっていたクリスケが、仮設病院の食堂で昼食を食べていた所に、ノコがばったり居合わせたのだ。街の復興作業が忙しいだとかで、夜くらいしか——クリスケが大人しくベッドに座っている時間帯しか——様子を見に行けていなかったノコにとって、これはかなり衝撃だったらしい。
 早口で「え、なにお前、もう普通の物食えんの? え? 一人でももう歩けるって? 頭痛も治った? なんでそれをもっと早く言わねぇんだよ!」とまくしたてるや否や、クリスケを引っ張って全力疾走。
 最初は引き摺られていたクリスケも、途中からは自分で走りだし——そして、今の自分たちの『家』の、唯でさえボロボロだった扉を音高く開け放ちぶち壊して、二人で「ただいまあーっ!」「クリスケが完全復活したぞ——!!」…と叫んだのだった。

 もちろん、散々お説教を喰らったのは言うまでもない。


 その時のたんこぶをクリスケがこっそり擦っていると、ふわり、と甘い香りがやってきた。ちびっこ達が、一斉に高い歓声を上げる。
「やったぁあああ、ケーキだケーキだー!!」
「メイシーさん最高!大好き!!」
「はい、はい、蜂蜜ケーキが焼けましたよ。粉が少なかったから、少し硬めのケーキだけど、許してちょうだいね」
 少しだけ腰の曲がったキノピオの女性が、ふんわりと焼きあがった大きなケーキをどんとテーブルに置いた。我先にと乗り出した子どもたちの手を、キノエがぺしんと叩く。
「こらっ、あんたたち、一人一切れまでだからね!ズルするんじゃないわよ!」
「はーい……」
 すごすごと手を引っ込める姿に、部屋のあちこちから笑い声が上がった。ケーキを運んできたキノピオの女性——メイシーも、手を口元に当ててくすくすと笑っている。
 切り分けられた一切れは本当に小さいものだったけれど、ほんのりと甘くて、口の中で優しく溶けて、暖かかった。

「あの日から、こんなにいっぱい美味しいものが出てきたことなんてなかったんだよ。食べ物も少なくなってきてるしね」
 周りの皆には聞こえないようにして、一人のボム兵の少年がクリスケにこっそり耳打ちしてくれた。クリスケも、周りに気づかれないくらいの小さなため息を、そっと吐き出す。
「やっぱりそうなんだ…」
「…やっぱり? ノコにもう聞いた?」
「ううん、そういう訳じゃないけど。ノコが、グリムも一緒に今は食べ物をどうにかするのと出口をどうにかするので忙しいからほとんど来られない、って言ってたから、それで」
 一か月のブランクは長い。
 この3日で少しずつ分かってきたとはいえ、このアリウスが今どういう状況に置かれているのかも、クリスケはまだほとんど知らない。
 今は水をさしてしまいたくないけれど、お祝いが終わったらちゃんと教えてもらわないとなぁ、とつらつら考えていると、少年——グリムが、そっとそれを遮った。
「……体調は? もう平気?」
「あ、うん、本当にもうほとんどよくなってるよ。お祝いはやってもいいけどその代り絶対安静!!ってキノエさんに20ぺんくらい言われたから、騒げないけど……」
「なんだ、やけに静かだからまだ本調子じゃないのかと思ったよ」
 グリムの、翠色の前髪にほとんど隠れている金の目が、笑顔を映してすっと細くなる。
 スープと呼んだ方が近いのかもしれないシチューを口に運びながら、クリスケも一緒に笑った。普段なかなか笑わないグリムは、その分、たまに笑うと凄く表情が違って見える。

「お、何だよグリムが笑ってんじゃん。めずらしーなー」
 ケーキ争奪戦を終えて戻ってきたノコが、目を丸くした。それぞれの取り分よりほんのちょっと大きいケーキを置いて、二人の間に腰を降ろす。「やべぇ超うめえ」と呟いたっきり、黙々と無言で食べ続けているノコに、クリスケは、グリムとこっそり顔を見合わせた。ノコがこれだけ寡黙になるのも、同じくらい珍しいのだ。
「あのさ、ノコ」
「…………」
「今日この後なんだけど」
「…………………」
「オイラ、ちょっと街を見てくるつもりなんだけどノコはどう——」
「何だって!?」
 それまで、「俺とケーキのランデブーを邪魔しないでくれ」と言わんばかりに無言だったノコが、いきなりガバっと振り向いた。
 呆気に取られているクリスケの肩をぐっと掴み、一言一言を言い含めるように声を潜める。
「…いいか、クリスケ、お前はまだ、一人で街に出ちゃ駄目だ。……というか、街の、城の方に近づいちゃ駄目だ」
「な、なんで? だって、さっきは普通に…」
 思わず、クリスケは小さく聞き返していた。
 そういえば、病院にいる間も、色んな人から「一人で外に出ないように」ときつく言われていたけれど、その理由はぼかして教えてもらえなかった。「危ないから——」と言われるばかりで、でも、今日、ノコと二人で街を走り抜けてきた時は、何も危ないことなんて無かった。それは確かに、瓦礫ばっかりで、それの倒壊に巻き込まれるかもしれないとか、そういうことはあるのかもしれないけれど、でも、それにしたって。

 ふう、と呆れたようにグリムがため息をつく。
「…ノコ、まだ教えてなかったの?」
「う、だってさ、やっぱ説明しにくいじゃんか、こういうの…」
「それはそうだけど……」
 しばらく口ごもってから、グリムは困惑した表情を浮かべたままのクリスケに向き直った。そして、口を開く。
「ねえ、クリスケ。病院からここに来るまでの間の道は…確か、お城が見えなかったよね」
「…うん、見てないよ。それに、走ってたし…そんなにゆっくり周り見てないし」
「じゃあ知らなくて当然だよ。……今ね……」

 まるで見えない壁に突き当たったように、ふ、とグリムの言葉が止まった。
 賑やかな周りの声が遠く聞こえるのは、今自分たちが座っているのが、たまたま部屋の隅っこだからなんだろうか。
 ちびっこ達の歓声と、大人たちの笑い声が、ぼんやりと反響している。
 グリムが、深呼吸した。
「……今ね、あのお城は…お城には……あの時の………影の女王、…が、住んでるんだ」
「…影の女王?」
 聞き返すクリスケの声に頷いて、言いきった、と安心したようにグリムは息をついた。
「そう。しかも、真っ黒に、塗装してね」
「塗装っていうか、魔法だろ? あれは」
「どっちだって同じだよ」
「グリム、ちょっと待って」
 ノコのツッコミをさらっと流して、すっかり冷めてしまったシチューを口に運びだすグリムを、慌ててクリスケは遮った。今の説明じゃ、さっぱり何が何だか分からない!
「なんだよお前ら、さっきから揃って辛気臭い顔してると思ったら、城の話題か?」
 クリスケ達から少し離れた席に座っていた若いロテンが、ひょいと身を乗り出したのはその時だった。よく通る彼の声に、さらに何人かが顔を上げる。ご飯をよそっていたキノエもこちらを振り返るのを感じて、クリスケは少し慌てた。それはノコも同じだったようで、いつもより低い声で「ロト兄、声でけぇよ…!」と訴えながら眉を寄せている。
「あー、悪かった悪かった。ごめんって」
 顔の前で手を合わせて、ロト、と呼ばれた彼は頭を下げた。
「ほんまに、ちっとばかし調子に乗りすぎやで、自分」
 ぽこん、と良い音がした。聞き馴染んだガラガラのボーイソプラノに、「あ」とクリスケが顔を上げる。
「コポ兄!」
「おー、間近で見るのは久しぶりやな、クリスケ! やっぱこっちの方がええなあ!」
 笑顔の雲に腰かけて中空にぷかぷかと浮かびながら、コポ、と呼ばれたジュゲムの青年はにっこりと笑った。
「コポル、何か食べるなら雲じゃなくてちゃんと椅子に座らなきゃ駄目よ!」
「はいよー。わかっとるでキノエさーん」
 飛んできたキノエの声に軽やかな声で返事をして、コポルは今しがたぽかりとやったばかりのロトの頭に肘を乗せて頬杖を付いた。ついでに、溜息を一つ。
「全く、祝いの席でそんな話しない方がええに決まってるやろ」
「痛ぇ! ちょっ、てめえこの、コポル、お前、肘が地味に痛い…! ぐりぐり痛い…! だぁもう、悪かったって言ってんじゃんかよ!」
「こないなことなってもスリルやらサスペンスやらホラーやらが大好きなんて信じられんわ」
 現実で十分やろ、と締めくくって手を離すと、コポルは苦笑した。空中にぷかぷかと浮かんだままの小さな雲も、そっくり同じ表情を浮かべる。
「あの城で良かったこと言うたら、あの時に、王様もお后様もあそこにはいなかったってことくらいや。ほんまに、こればっかりは不幸中の幸いやったなあ」
「あー、そうだな、それくらいだったらここで話しても問題ねぇだろ? そんなに辛気臭くないし」
 頭を擦りつつ首を傾げたロトに、ノコとグリムが考え考え、頷く。首を傾げ返したのは、クリスケだった。
「……王様もお后様もいなかった? そうだっけ?」
「ほら、何か長期の外交兼ねた休養だとかで、海向こうの国に出掛けてらしただろ?だからあの時、お城には大臣達と城仕えの人しかいなかったんだよ。忘れたのか?」
 いらしてたらどうなったことか分かんないぜ、とノコが自分で言って身震いをする。相槌を打つコポルの声を聞きながら、クリスケはまた首を傾げた。…さっぱり覚えていない。
 ノコの腕をつんつんとつついて、クリスケは尋ねた。
「あのさ、王様とお后様が外国に行かれたのって、いつだったっけ?」
「ん? もう軽く2年くらい留守にされてるだろ」
「ええ!?」
 引っくり返ったクリスケの声に、ノコとグリムが驚いた表情を浮かべる。
「本当に覚えてないの?」
「全然…」
「なんやクリスケ、軽い記憶喪失にでもなったんかー?」
 軽い調子で笑っていたコポルが、言葉を切ってふっと表情を変えた。ぽんぽん、と宙に浮かんだままでクリスケの頭を優しく叩く。
「…いや、でもまあ、在り得る話やな。一か月も眠ってたんや、ちょっとくらい記憶が混乱しててもおかしくないわ。落ち着けば思い出すんとちゃうか?」
「ま、そうだな。まだあんまり無理すんなよー」
 コポルとロトに二人揃って視線を向けられて、一応頷いたものの、クリスケは心の中でもう一度こっそり首を傾げた。よく分からないけれど、…何処かに何かが引っ掛かってるような気がする。それに…みんなが話したがらない、影の女王って……・。
 考え込んでしまったクリスケに、ノコとグリムは心配そうに顔を見合わせた。






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「クリスケー、ちょっといいかー?」

 ちびっこ達が欠伸をし始めて、食器やらテーブルやらをそれぞれが賑やかに片付け出した頃。ふいにノコに名前を呼ばれて、クリスケは顔を上げた。
 積み重ねていた小皿をグリムにパスして、声のした方——扉が壊れて(もとい壊して)しまったせいで、本当に殺風景な玄関の方——に急ぐと、ノコが若干によによしながら手招きしている。
「何? どうかした?」
「お見舞いが来てる」
 ひょい、とノコが身体をずらすと、扉の向こうに立っている人影が見えた。小さな影がひとつ、そしてその後ろに隠れるように、もうひとつ——

「パタラ!?…サパタまで! なんでここに…というか、どうしたのさ、こんな遅くに…!」
 それが誰かを気づくと同時に、クリスケは駈け出していた。家の中から外の暗がりに伸びる光の帯の中に、小さな二人のパタパタが立っている。その内の片っぽが、高い声を張り上げた。
「酷いよクリスケ兄ちゃん!病院まで行ったのに兄ちゃんのベッド空っぽだったんだから!」
 ぶーっと頬を膨らませて——パタラが、背中の羽をばたばたさせた。その羽が片方包帯を巻いているのを見て、クリスケの表情が曇る。膝を折って、視線を合わせると、抗議を続けるパタラの後ろから、彼にそっくりな顔をしたパタパタの少女がじっと見上げてきた。ぽつりと、小さな声が呟く。
「…もう治ったの?」
「うん、もうほとんど元通りだよ。ありがとう、サパ……痛い!パタラ、ごめんって、だからそんなに膝に頭突きしないで…!」
「俺怒ってるんだからね!俺がお見舞い行った時に限って兄ちゃん寝てるし!明日もっかい行こうと思ったらなんか母ちゃんと一緒にたくさん飛ばなきゃいけなかったし!帰ってきたら兄ちゃんいないし!」
 ごんごんごん、とぶつかってくるパタラの頭を何度か撫でると、やっと静かになった。…何か気に入らないことがあると、何にでもかんにでも頭突きをする癖は、相変わらず治っていないらしい。
 会話が切れたタイミングで、クリスケは一瞬後ろを振り返ってみたが、ノコは一足先に片付けの方に戻ってしまったようだった。
 ……さて、どうしよう。
 目が覚めてから聞いた話だと、確か、この二人のパタパタ兄妹の母さんは、二人を連れてなんとかアリウスの外へ疎開(何て言ったってパタパタは飛べるのだから)しようとしてるんじゃなかったっけ…?
「…二人とも、今日はお母さんはどうしたの?」
「………」
「母さんはね、今病院なの」
 ふっと口を閉ざしてしまったパタラの代わりに、サパタが小さな声を紡ぐ。
「ノコとキノエさんには、今日のお昼に会えたから、もう言ってあるの。私たちもしばらく、こっちのおうちにいさせてもらいなさいって、母さんが——」
「——違う、違うよ!俺達クリスケ兄ちゃんのお見舞いに来たかっただけだよ!母さん超元気だもん!だから俺ノコ兄ちゃんにもそう言ったんだ!」
 サパタの言葉に被せるようにして、パタラが全く逆の言葉を叫んだ。重なって反響する二つの声を聞きながら、何となく、理解して——クリスケは二人の頭にぽん、と手を置いた。
 強がりなパタラと、大人しいサパタは兄妹なのにとても正反対に見える。でも、実際この二人はよく似ているのだ。例えば、悲しいことがあった時、パタラは強がりで、サパタは静かさで、それを必死に押し隠して——実際には決して寂しいと言わない所とか。

「二人とも、ありがとう。……あのさ、蜂蜜ケーキがちょこっと残ってるんだけど…、二人ともお見舞いに来てくれたついでに食べていかない?」
「ケーキ!? ほんと!?」
 しょげていたパタラの顔が、がばっと跳ね上がる。サパタも、普段は伏せがちな目を大きくまんまるにしているのを見て、クリスケは心の中でキノエにお礼を言った。…どおりで、片付けの時にチビたちのブーイングを押さえてケーキを何切れか残してる訳だ。
 「俺、さんじょーう!!」なんて元気に叫びながら家の中に駆け込んでいくパタラを見送って——部屋の中から、ちびっこ達の歓迎の声やら何やらが聞こえてくるのを聞きながら、クリスケは立ったままのサパタを振り返った。
「…いい。平気。ありがとう」
 差し出しかけたクリスケの手を、サパタは首を振って遠慮する。てくてくと歩きだした彼女に並んで歩きながら、「キノエさんとか、女の子たちは多分台所の方だよ」と指さすと、微かにその顔が笑顔になった。
「……あ、そうだ」
 ふと、サパタが足が止めた。思い出したようにクリスケを見上げて、スカートのポケットから何かを取りだす。
「忘れてた。お見舞い。あのね、パタラと二人でお手伝いして、貰ったのよ」
 はい、と何かをクリスケに渡すと、サパタは振り返らずにぱたぱたと走って行ってしまった。その後姿に、慌てて「ありがとう」と叫んでから、クリスケは手を開いた。
 ちらちらと揺れる蝋燭の光に照らし出されたそれは、白鳥の紋を浮き彫りにした小さな木のメダルだった。細かい羽毛も流れるように白鳥を囲む蔦も、その葉脈が見えるような気がするくらい、丁寧に丁寧に彫りこまれている。王家を守護する紋が、この街の民の幸せも守ってくれますようにと——ずっと昔から、この街で作られてきた馴染みのお守りだ。最も、普段なら、木ではなくて銅板に彫って作られるのだけど…。
 今のこの街で作るのも、手に入れるのも、かなり大変だったはずなのに。
 うわぁこれは後でもっかいお礼を言わないとなぁ…、なんて、口の中で呟いて、クリスケはそれを目の高さまで持ち上げた。本当に、こんな状況の中で、誰がここまで丁寧に作ったんだろう。それとも、こんな状況だからこそ、作られてるんだろうか。

「……あれ……?」

 違和感を感じたのは、メダルをしまおうとした時だった。言葉に出来ないよく分からない感覚で、何かがひっかかって——もう一度、白鳥の紋をじっと見つめて——


 噴水の音が聞こえたような気がした。

 繋がった鎖に引っ張られるように、忘れていた夢の情景が、一気に浮かび上がってくる。帰り道を教えてくれた誰かの胸に刺繍されていた紋章のイメージから始まって、その人の少し影を帯びた表情、人を見つけた瞬間の安堵感、走りまわった時の足の痛み、誰も居ない、死んでしまったかのように静まり返ったアリウス。
 一瞬、またあの暗い世界に迷い込んでしまったような錯覚に捕らわれて、自分が何処にいるか分からなくなって、クリスケは息を呑んだ。
 足元が心もとない気がして、壁にふらふらと寄りかかる。握り締めたメダルが手のひらに食い込む痛みが、ここはちゃんと現実だと告げていた。
「……あの人は」
 何度か深呼吸を繰り返し、ようやっと、クリスケはぽつりと呟いた。
 メダルに浮きあがる白鳥の紋章の凹凸を、指先でなぞる。
 夢で見た時はは気づかなかったけれど——もしも自分の記憶が確かなら、あの人の胸元にあった白鳥の紋章は、これと全く同じではなかったか。……城に仕える人達は、みんな衣服の何処かにこの紋章を付けている。でも、それは必ず「簡略化」されたもので、あんなに丁寧に刺繍された紋章を付けることが許されている人なんて言ったら、それこそもう……

 そこまで考えて、クリスケはぷるぷると頭を振った。
 最近の自分はどうしてこう変な夢しか見られないんだろう。
 ——そう、夢なのだ。
 ロトやコポルやノコが話していたことと思いっきり矛盾してるし、何より第一ありえない。夢なのだから、それが当たり前なのかもしれないけれど…。
 この夢も早く忘れてしまおう。
 そう思って、クリスケはメダルを巻き布の隙間に滑り込ませた。
 夢が現実と関わりがあるはずはないのだから。
 …そうでなかったら、あの日に見た恐ろしい滅びた世界の夢まで、必死で偶然だと言い聞かせたあの夢まで、意味を持ってしまうじゃないか。

 早く部屋の方へ戻ろうと、クリスケは踵を返した。けれど、どうしても引っ張られるような感覚に抗うことが出来ず、振り返る。外へ向かって口を開けた玄関の向こうには、真っ暗な闇しかなかった。

 お礼を言いにいくから、と精一杯叫んだ自分の声が、夢の中から木霊しているような気がした。




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 ひたひたと、静かな足音が狭い廊下に響いていく。
 家の中の他の場所と同じように、急ごしらえで作られたそこは、ひんやりとした不揃いな石がたくさん敷き詰められていて、サンダルを脱いで歩くとちょっぴり痛かった。
「(…でも、木の床じゃなくて良かった)」
 心の中だけで呟く。不器用な自分には、どれだけ努力したって、床を一度も軋ませずに廊下を渡り切るなんて無理だっただろうから。

 サンダルを手にぶら下げて、クリスケはしんと静まり返った部屋をそっと覗きこんだ。
 数時間前まであんなに賑やかだった部屋は灯りも消えて、人がいる気配はこれっぽっちもしない。でも念のために視線を一周させて、後ろも振り返って、クリスケは玄関へ急いだ。
 扉が無くなっていて本当に良かった、と思う。
 玄関といっても、ただ石を組んでいない部分というだけだけど——そこをそっと潜り抜けて、サンダルを足につっかける。誰かを起こしてしまった気配が無いことを確かめ、クリスケは小走りで走りだした。

 明かりのほとんど消えた真っ暗な道は、少しでも油断するとすぐに迷子になりそうだった。地下に沈んでしまったとは言っても地理関係はそれほど変わっていないはずだから、勘と感覚だけで進むしか無い。…ただでさえ迷子が得意技なのだから、本当に、慎重に。

 頭の中に思い描いたアリウスの地図と噴水までのルートを、そろそろと、時には手探りでクリスケは辿っていった。あの後、パタラにこっそり今のアリウスの様子を尋ねてみたら『真っ暗なことと空が見えないこと以外は変わんないよ』なんてあっけらかんとした答えが帰ってきたので、特に———迷子になるかもということを除けば——危険はないはずだ。
 それでも、ノコの「城には絶対に近づくな」という言葉も忘れてはいなかったので、出来るだけ城に近づかずに済みそうなルートをクリスケは選んでいた。若干遠回りになってしまうが、仕方がない。
「(…あんなに反対されるっぽいって分かって無かったら、昼間に来ようって思えたんだけどなあ)」
 明らかに一オクターブは低かったあの時のノコの声を思い出して、クリスケは溜息をつく。何が危ないのかもはっきりとは聞き出せなかったから、用心の為にもランプは持ってこなかった。もし説明したくないような危険があるのだとしても、とりあえず、その何かに見つからなければ良い訳だし。

「…あ」
 暗闇に慣れた目に、どこか見覚えのある通りが見えて、クリスケは声を上げた。そういえば夢の中でもこの辺通ったっけなぁ、と一瞬浮かんだ思いをすぐに打ち消す。

 どうしても眠ることが出来なかった。だから、クリスケはこっそり家を抜け出してきたのだ。
 確信が持てないなら確かめればいい。
 あの時の、「ここにまた来る」と言った自分の言葉が、夢の中の泡だったことを確かめればいい。噴水広場に来たって、誰もいないことを確かめられたら、きっともう夢なんて忘れられる——
 脳裏に閃いた死んだ世界の夢の記憶を追い払うように、クリスケは目を閉じた。アリウスを彷徨った夢はまだいい。でも、アリウスが壊れる日に見たこの夢だけは絶対に忘れたかった。夢になんて意味は無いんだと信じきれない限り、このままじゃ不眠症になってしまいそうだ。

 角を曲がると、倒れた柱のトンネルの向こうに、もう噴水広場が見えていた。
 そこに人の気配がないことに、安心して——安心したはずなのに、胸がちくりと痛んだ。自分で自分の感情が理解出来なくて、クリスケは眉をひそめる。
 首を傾げつつ、一応、ちゃんと見ておこう、とクリスケはトンネルを潜った。ぱっと、遮られていた視界が開ける。

 そして、彼はそこにいた。






next…