何が現実で
何が夢なのか
そんなの今更どうだっていい。
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「…ッ、痛…あ……」
左足に突然、電流で打たれたかのような痛みが走る。
びりびりと痛みを訴える足を抱えて、クリスケは思わずその場に座り込んだ。早い呼吸を繰り返しながら、歯を食いしばる。涙が滲む目を押さえる余裕すらも無かった。
——あれから。
気がついたら、クリスケは崩れ果てたアリウスに一人きりになっていた。
一体何がどうなってしまったのか、ちっとも分からない。あんなにも、互いの腕をきつく結びつけていたはずのノコさえ隣にはいなくて、右手には千切れた細布がぶらさがっているだけだ。
ノコの名を、知っている人の名をひたすらに叫び続けた喉が痛くて堪らない。
誰か一人でも知り合いが、知り合いでなくてもいい、誰か人がいないかと、崩れた石畳の上を迷子のように走り続けた足も、もうほとんど限界だった。
「……っ…」
一瞬、痛みと疲労に意識を奪われそうになる。
それでも、崩れた柱を頼りにして、クリスケはなんとか立ち上がった。
変わり果ててしまった風景でも、ほんの少しの面影は残っている。微かに見覚えのある通りの造り方、ここはもう、「家」の近くまで来ているはずだった。
どうかあの青い屋根が崩れずに残っていてくれるようにと、祈るような気持ちで足を引きずる。家に辿り着いたからといって、そこに人がいるかなんて分からない。気がついてからもうかなりの時間この廃墟を彷徨っているのに、クリスケは今まで誰一人として人影を見かけなかったのだ。きっと、家に帰ったって、そこにも同じように誰もいないに違いない。けれど、その場所を目指さずにはいられなかった。
立ち止まることが怖かった。
鼓膜が破れてしまったかのような静寂。
自分の足音と、時折建物の残骸が崩れる音だけが響く暗闇の世界。
命の気配はどこにもなかった。
あの夢で見た世界が、今、目の前に広がっていた。
歩いても歩いても繰り返される同じ廃墟の光景に、必死で人影を探していたクリスケの視線も少しずつ、足元へと落ちていく。
「………死んじゃったのかな…」
ぽつりと、呟かずにはいられなかった。
あの時に自分はもう死んでいて、この恐ろしいくらい静かな世界は実は死後の世界なんじゃないだろうか。だって、そうでなきゃ、なんだって言うんだ。
「…………」
まだ痺れた感覚の残る左足に視線を落とす。赤い色が、ズボンに滲んでいた。
死んでも血って流れるのかな、とぼんやり考えながら、クリスケは道を派手に塞いでいた瓦礫(多分これは広場に立ってた柱だ)の隙間を何とか潜り抜けた。いい加減、息が続かない。こめかみの横を滑りおちていった汗を、片手で乱暴に拭う。それでも、ひたすらに足を進めた。
何本かの路地を潜り抜け、崩れた階段をなんとか下り切る。
そして——海の見える高台で、その青い屋根は崩れずにクリスケを待っていた。
「着い、た……」
本当にやっとだ。
ぜいぜいと息を切らせながら、クリスケは縋るように辺りを見回した。丸い屋根も、白い壁も、そこまで酷くは崩れていない。物干し竿まで、ちゃんと倒れずに残っている。もしみんながここにいたのなら、絶対に、まだ無事のはずだ。
「……っ、ねえ、誰かいない!? オイラだよ、クリスケだよ!……——ノコ!キノエさん!メイシーさんパタラグリムキノラスおじい——っ!」
ありったけの声を振り絞って叫んだ名前は、幾度か壁の間を反響して、吸い込まれるように消えていった。
しん、と死んだような静寂が降りる。
クリスケの手が、添えていた口の傍から力なく落ちた。
「…みんな…どこ行っちゃったんだよ……」
泣いたら駄目だ、駄目だ、とそれだけを必死に自分で言い聞かせながら、クリスケはその場にへたりこんでしまった。
これからどうすればいいのだろう。
もう身体はくたくただし、足は痛いし、何処へ行けばいいのかも分からない。
誰か、と掠れた声で呟く。本当にもう、誰でもいい、誰か……
「返事してよ……」
限界だった。汚れた頬の上を、抑えきれなかった涙が滑り落
『———……』
…いや、それよりも、クリスケが弾かれたように顔を上げる方が先だった。
微かに、本当に微かに、今、人の声がしなかったか。
自分の息の音さえも殺して、クリスケは辺りを見回した。視界には相変わらず誰もいなかったが、それでも、何処かから、途切れ途切れに音が聞こえてくる。
「噴水の、方からだ……」
小さな呟きが呪文になった。へたりこんでいた足に、力が戻る。
ばねのように立ち上がると、クリスケは音の聞こえた方角に向けて走り出した。
角を曲がる度に聞こえたり聞こえなくなったりする音だけを頼りに、進んでいく。全身を耳にして、注意深く辺りを見回しながら走るうち、クリスケはふと違和感に気づいた。
何かが、足りない。
人だけじゃない、この街から何かが消えている——?
「……、あ」
ふと空を見上げた時、クリスケはその違和感の正体に気づいた。空が暗いこと、そのことじゃない。街の中心、つまり今自分が走っているあたり、に、街を見守るように聳え立っていたはずの、あの真珠色の城が、消えていた。普段なら、城の尖塔がつくる影が道に落ちているはずなのに、それが無くなっていたのだ。道と家の間にしか視線を向けていなかったから、今まで気付かなかったらしい。
「なん、で……?」
ぽっかりと空いてしまったような空を見上げて、それでもクリスケは走る足を止めなかった。もしあの声すら見失ってしまったら、それこそどうしたらいいか分からない。考えている暇なんてなかった。
たん、と崩れかかった石段を飛び降りる。風向きのせいか途切れていた声の欠片が、明らかにさっきよりも大きく聞こえた。
噴水広場へ通じるアーチ型の門は、崩れてきた柱に寄り掛かられながらも、いつもと同じ場所にかろうじて立っていた。角を曲がると同時に見つけたその門に、クリスケは大きく安堵の息を吐き出した。しばらく前から声は途絶えてしまっていたが、それでも確実にこの場所から聞こえてきていた。…間違いじゃ、ないはず。
いくつか大きな呼吸を繰り返してから、そっと門に近づく。
聞き間違いじゃありませんように。
恐る恐る広場を見渡して、最初に見えたのは、崩れた噴水と、あちこちがひび割れた石畳、何とか立っている家並みだけだった。
そして、次に見えたのは——
「っあ、——あの…!!」
考えるよりも先に、身体が動いていた。
噴水の傍に佇んでいた——この意味不明な世界に来てから初めて出会った人影が、驚いたように振り返る。
門から噴水までとはいえ、こんなに速く走ったことなんかないんじゃないかというくらい、クリスケは走った。のんびりしていたら、やっと出会えたこの人影すらも消えてしまうような気がして。
「…め、目が覚めたら、目が覚めたら誰もいなくて、オイラ何がどうなったのかさっぱり分からなく…て……」
ぜいぜいと呼吸と言葉を一緒に吐き出しながら、そこで初めてクリスケは顔を上げた。
海の色をした蒼い瞳に、肩に触れる黒い髪。クリスケよりも随分身長の高い青年が、戸惑いの表情を浮かべながらクリスケを見下ろしていた。
(——あれ)
その蒼い瞳と目が合った瞬間、ふと、不思議な感覚が胸に広がった。
この人を知っている。
何故かそんな確信が訪れて、どこかで会ったことがあっただろうかと、思わずまじまじと青年を見つめる。ただ、それも視線を顔から下へ動かすまでの間のことだけだった。
青年の瞳と同じ色の服は、まるで絵のように細やかな金の刺繍に彩られていた。胸の上には白鳥の印。一目見ただけでも、もう分かりすぎるほどに身分の違いが分かる。
久しぶりに、この意味不明な天変地異以外のことで、クリスケは背中が寒くなった気がした。見覚えがあるのも当然だ。この印があるってことは、この人はお城に住んでるか直属で仕えるかしてる人ってことじゃないか!
「ごっ、ごめんなさ…じゃない!すいません、その、…えっと……」
しどろもどろしてから、ようやっと言葉を紡ぎだす。
「あの……ここ、は……本当にアリウスですか?」
みんなが何処へ行ったのか、何が起きたのか、そんな真っ先に知りたいはずのことよりも、先に口を衝いて出たのは、こんな言葉だった。
クリスケ自身が自分の質問に戸惑っている間に、青年は静かに首を振る。
「違う」
低く、けれどよく通る声で、青年はクリスケの問を否定した。
まさか本当に否定されるとは思っていなかったクリスケが、ぽかんと青年を見上げる。その視線を受けてか、青年はもう一度言葉を砕いて繰り返す。
「ここは確かにアリウスだが、本当のアリウスじゃない」
「…本当のアリウスじゃ、ない?」
「……すまない、説明が難しいんだ」
困った表情で辺りを見渡してから、青年はすっと広場の奥を指さした。つられてクリスケもそちらを振り返る。まだそこまでは酷く崩れていない道が、続いていた。
「あの道を下ると港がある。そこから一歩海に入ればいい。そうすれば、帰れる」
「帰れる? ってことはえっと…本当のアリウスに?」
「ああ。——多分、迷いこんでしまったんだな」
そう言って、青年はクリスケに視線を戻した。
「アリウスにいた者はみんな、そちらにいるはずだ。……早く帰った方がいい。心配されているんじゃないか」
その言葉に、現状が掴み切れず、言葉をオウム返ししていたクリスケが我に帰った。…理屈はよく分からないが、消えてしまっていたのはみんなではなくてどうやら自分の方らしい。ノコも、キノエさんもメイシーさんも、きっと心配している。チビ達は泣いているかもしれない。
早く、帰らなくちゃ。
考えるのは後回しに、とにかくこくこくとクリスケは頷いた。そしてそのまま踵を返そうとして、慌てて振り返る。
「えと、……その…貴方、は?」
……何て呼べば良いのか分からなかったので、何だか変な言葉になってしまった。
そんなことはさておき、そう、この人は、何故帰らないのだろう。ここが本当のアリウスじゃないというのなら、尚更だ。
「………私は」
青年が口ごもる。しばらく何か考えていたようだが、やがて、小さく首を振った。
「まだ、帰れないんだ」
「でも…」
その瞳に影がさしたような気がして、クリスケは少しの間そこでためらっていた。
…こんなところに、この人は、まだいなくちゃいけないのか?しかも一人で?
自分なら。
絶対に、いやだ。
気づいた時には、クリスケは青年に向かって手を差し出していた。
それを見て、青年の顔に一瞬複雑な表情が浮かぶ。けれどそれはすぐに微かな苦笑に変わった。青年の大きな手が、クリスケの小さな手をそっと押し戻す。
「私の事なら心配はいらない。今は早く、待つ人の元へ帰るんだ」
「…………」
平らかでも有無を言わせない言葉に、もう、頷くしかなかった。
青年の示した方向へ、そろそろと歩きだす。あっという間に広場の出口だ。石畳の色が僅かに変わるその境目で、クリスケの足が引っかかった。…止まった。
まるで迷いを振り切るように、勢いよく振り返る。
「——アリウスに…っ、じゃあ、本当のアリウスに帰れたら、ちゃんとお礼しに行くか…行きますから!この噴水のところに!だから…」
口の傍に手のひらを添えて、声を張り上げる。
「名前、教えてください!オイラ、クリスケ・スカイブルーっていいます!」
静かな世界に響き渡ったクリスケの声に、噴水の傍の青年は、虚をつかれたように瞬きを繰り返した。けれど、やがて呆れたように苦笑して、彼の名を風に乗せる。
ありがとう、と一声叫んで、クリスケはもう振り返らなかった。
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帰り道は本当に一瞬だった。
港に降りて、砂浜に打ち寄せる黒い波に足を踏み入れた瞬間、地面が消えた。…違う、身体が何かに引き摺りこまれた。
思わず悲鳴をあげた拍子に、思い切り水を呑み込んで、泡だけがたくさん水面に向かって逃げて行って、苦しくて苦しくて、意識が薄れていく中で必死にもがいて、最初に手が水面の外に出た。そうしたら誰かが強くその手を引いた。そして次に顔が水の外へ逃れ出て、瞳を開けたら、
仮設病院の天井を背景に、
ノコとキノエが、顔をくしゃくしゃにしてクリスケを抱き潰していた。
世界の終わりから、一か月が経っていた。
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