『空は闇に覆われ 大地は 震え』


『まるで世界の終わりが来たようでした』



『そして街はそのまま一夜の内に』




『地の底に沈んでしまったのです』







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 耳の奥で、ざぁざぁと音がする。
 ぼんやりと目を開けると、真っ黒な空から大粒の雨が叩きつけるように落ちていた。
 …なんだかとても寒い。
 ——そこで初めて、自分が全身びしょ濡れで、地面に仰向けに倒れていたことに気づいた。そして、倒れる前に、何が起こったのかも。目を見開いて、クリスケは跳ね起きた。
「…ッ……!」
 瞬間、ずきん、と後頭部に痛みが走った。とっさに手を押し当てると、何故か指先が滑る。僅かな、血の感触。仰向けに倒れた時に、切ってしまったらしい。
 のろのろと、手のひらを目の前にかざしてみる。暗いから何も分からない、はずが、その瞬間、雷光が閃いた。一瞬明るくなった視界に、自分の指先についた赤がくっきりと映る。——命の色。クリスケの表情が、青ざめた。
「……ノコ!?」
 叫んだ声は、ほとんど悲鳴じみていた。暗くて視界が少しも利かない。今が昼なのか夜なのか、それすらも分からない。それでもおろおろと腕を彷徨わせるうちに、何かに触った。人の体温と同じ温もりを感じて、力いっぱい引き寄せる。
「ノコ、起きてよ、ねえ!聞こえる!?」
「………う…」
 生きてる。
 小さくも返ってきた返事に、クリスケは胸が空になるほど息を吐きだした。まだぼんやりしているらしいノコが、怪訝そうに辺りを見回す。
「……なに、が、どうしたんだ?俺は……」
「…地震が」
「……地震?」
 クリスケの言葉をそのまま繰り返したノコの声は、現実を呑み込めていないようだった。無理もない、と思う。あんな、突き上げるような揺れは、地震なんて呼べるものではない。あれはもう、大地の炸裂だ。
 ぺたぺたと手探りでノコの顔を触って、怪我がないことを確認してから、クリスケは小さく呟いた。
「…あのさ、ノコ」
 声が震えた。
「オイラ、この世界、知ってる」
「…何だって?」
「あの……夢で………」
 言葉を続けようとして、突風に遮られる。雨に濡れた、肩の震えが止まらない。いやだ、違う、違うんだ、絶対そんな訳あるもんか、と心の中でもう一人の自分が泣きながら叫んでいる。認めてしまったら、言葉に出したら、本当の本当に現実になってしまう。そんな気がして、クリスケはぎゅっと目を瞑った。
「……なんでもない、…っ」
 叩きつける雨に掻き消されてしまうほどの声だったけれど、ノコには届いた。
 どしゃぶりの雨の音と、時折轟く雷鳴以外、何の音もしない沈黙が一瞬降りる。それを引き裂くように、再び大地が揺れ動き始めた。思わず悲鳴を上げそうになりながら、息を止める。
「………帰らねえと…」
 揺れが完全に収まるまで耐えられず、呻くように、ノコが呟いた。クリスケもそれに必死で頷いて、なんとか、立ち上がる。震えているけれど、大丈夫だ。立てる。走れる。
 絶対にはぐれないように、お互いの手をきつくきつく布で縛った。そして、クリスケとノコはどしゃぶりと真っ暗闇の中を走り出した。







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 大理石の床に、粉々になった水晶が星のように散らばっている。高い音を立ててそれらを踏み砕きながら、彼は長い長い廊下を全力疾走していた。
 美しい細工が施されていた窓は地震と突風で砕け散り、吹き込む豪雨で床はびしょ濡れだ。少しでも油断したら転びかねない。それでも、彼は速度を緩めることは出来なかった。この城の廊下がこんなにも長いことを、ここまで恨んだのは初めてだ。
「…っ、神様……国王様……」
 ぜいぜいと締め付けるような呼吸の中で、思わず縋るように呟く。先ほどから擦れ違う人々も、大抵同じような表情をしていた。皆も、恐ろしくて仕方ないのだろう。それでも、彼は叱るように首を振った。
「(駄目、だ…っ)」

 自分たちが、この街を守る者なのに。あの地獄と化した街の人々を、守らなければ。

 足に走る鋭い痛みを完全に黙殺して、やがて彼は目的の扉の前に辿り着いた。今日まで近づくのも畏れ多かったその扉を、ほとんど蹴破るような勢いで、開け放つ。
「っこ、国王様!ご報告、申し上げます!」
 息を止めて声を上げると、部屋の中で走り回っていた人々が一斉に振り向いた。ここで彼はやっと、自分が慣例どおりに跪くことを忘れていたことに気がついたが、今はもうそんなことに構っていられなかった。早足で近づいてきた人物に頭だけ下げて、言葉を絞り出す。

「先ほどの地震で…南西の職人街に、かなり大きな地割れが……!仲間が今誘導していますが、落下してしまった人も…数名…家屋の倒壊、と、石畳も砕けてしまって、足場も悪く…住民はもうパニックです…!応援を、要請します……!!」
 一息でまくしたてると、力尽きたように彼は床に両膝を付いてしまった。
 肩で大きく呼吸を繰り返すが、ほとんど酸素が肺に入ってくる感じがしない。咳きこみながら、自分がこうしている間にも街で苦しんでいるだろう人々と仲間のことを思うと、彼はもう泣きそうだった。
「——分かった」
 凛、と。剣を打つように声が響く。そこで初めて、彼はのろのろと顔を上げた。
 まだ自分よりも若い、この国の王がそこに立っていた。海の色を宿した瞳は力強く、じっと新米衛兵の印をつけた彼を見つめている。
「西の港はほぼ避難が完了したとついさっき報告があった。そこにあたっていた者たちをすぐそちらへ向かわせよう。お前は……少し休め。職人街からここまでずっと走ってきたのか」
「……は…、っ、いいえ、…いいえ…!自分も…自分も救援に向かいます!」
 気遣いの滲む低い声に、一瞬安堵感で気が遠くなる。だが、彼ははじけるように立ち上がった。あの地割れの傍では、大切な仲間が今も必死に天変地異と闘っているのだ。回れ右で飛び出そうとした彼を、止めたのは、王の手だった。
「今は一人でも人手が惜しい。頼むから無茶をして肝心な時に力になれないような真似はするな!」
「…っ、……は、い…」
 決して反論を許さない声音と、強い瞳に、彼は引き下がるしかなかった。壁際に、邪魔にならないようひっそりと寄りかかった彼に小さく頷いて、王は踵を返す。

「高潮の被害は?」
「南港方面の家屋が9割方全滅です。人命被害は、城付きの魔法使いが波を押し留めていたおかげでほぼなかったようですが」
「その代り避難先がどうにも…一部の民は東の草原の方へ誘導出来ていますが…避難所のほとんども倒壊しています」
「城の使える限りの部屋の解放を——」
 ばさばさと地図や書類を捲る音と、ひっきりなしに人が出入りする音で騒がしい部屋の中でも、国王とその重臣たちの声はよく通った。多くの人が、その声だけを頼りに、脇目も振らず自分の役目をこなしている。
 だから——隅っこで息を整えていた彼だけは、唯一部屋を見渡すことが出来たから——それに気づくことが出来たのも、彼だけだった。
「………?」
 ふいに、寒気を感じたような気がした。
 思わず辺りを見回した彼は、アリウスの詳細地図を片手に指示を飛ばす王の後ろに、そこにある窓の向こうに、赤い光を見た。

 昇ったばかりの満月のような、美しい赤い光だった。








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 ——その先の惨状を、私が全て語り尽くすことは出来そうにない。
 …あの狭い抜け道が、洞窟のように自分たちを守ってくれていたことをクリスケ達が知るのは、幾つかの瓦礫を避けて、ようやっと向こうの路地が見えてきてからだった。
 遮るもの無しに荒れ狂う突風と、滝のように叩きつける豪雨。浅瀬と化した大地。そして崩れた石畳の道と家々。……人々の悲鳴。

 狂える突風に煽られた豪雨がこんなにも痛いということを、誰も知らなかった。
 クリスケ達は、悲鳴をあげて逃げ惑う人々に流されながら、方向も分からないままに、ひたすらに、走り続けた。どちらかが足を取られて、何度も二人一緒に地面に倒れながらも、走らずには——何処かへ逃げずにはいられなった。
 余震が襲う度、ぼろぼろの街はさらに砕けた。街の中に走る水路が、海の逆流で内側から町を沈めていく。
 石造りの道も、美しい列柱も家々も崩れ、弱い地盤は深く裂けた。
 暗闇の中、人々の目はそれを捉えることが出来ず、幾人もの人がその闇の底へ落ちて行った。ある者は甲高い悲鳴をあげて、ある者は声を出すことすら出来ずに。
 白鳥の紋を服に縫い付けた城仕えの者たちが、瓦礫をどかし、声を枯らして魔法の呪文を唱え、必死に人々を守ろうとしていたが——天変地異の前に、それはあまりに無力だった。


 街が闇に覆われてから何時間たったろうか、崩れる大地から逃れる内、人々はいつしか街の中心地へと追い込められていた。それはクリスケとノコも同じで、家へ帰ろうにも方向感覚は少しも役に立たなかったし、人の流れに逆らうことも無理なことだった。
 そして、人々は空に赤い雷が走り、あの美しい城の尖塔を粉々に打ち砕くのを見たのだ。
 あちこちで甲高い悲鳴が上がり、何人もの人がその雷を呼んだ者を、指さした。
 崩れた城の、そのテラスに佇む、美しい美しい魔物の姿。闇の中でもさらに暗く、際立っているその姿は、遠目からでもくっきりと見えた。
 呆然と見上げたクリスケは、その魔物の恐ろしいほどに赤い眼を見た。目があったと思った。息が止まった。背筋をすさまじい戦慄がえぐり、心臓が悲鳴をあげる。自分でも訳の分からない、幾重にも重なった感情が暴れだす。その渦に吐き気さえ突きつけられながらも、クリスケは目を逸らせなかった。

 彼女は、影の女王は、笑っていた。心の底から、楽しそうに。

 あれがこの街をこんなにしてしまったのだと、その場にいる全ての人が理解するのと同時に、影の女王は両手を振り上げた。彼女の赤い眼が輝き、闇色の波動と、今までで一番強い地震とが、一度に召喚される。
 唱和する悲鳴の中、大地が嫌な音を立てて軋んだ。石畳がばきばきと罅割れていく。
 亀裂と亀裂とが繋がりあい、あちらこちらで、地面が沈み始める。轟音が全ての音を掻き消していく。女王の笑い声だけが、異質なものとして、いつまでも宙に残っていた。




 美しき真珠オーシャル・アリウスは、そうして、大地の底へと呑み込まれていった。


 たった、一晩の出来事だった。









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