世界を滅ぼすのに、洪水などいらないのだ。

 ただ、光というぬくもりを奪ってしまえば、




 この世から光を消してしまえば。







(魂の泣き叫ぶ、声がする)




———————————————————————————————————







「なんだ、これ……?」

 呆然と空を見上げたノコの呟きが、何故か霧の中のように遠くから聞こえた。近くにいるはずなのに、何でだろう、と。立ち尽くしたまま、クリスケは心の中でぼんやりと首を傾げた。それが、衝撃で麻痺した心の出来る精一杯だった。
 自分の心臓の音だけが、やけにうるさく聞こえる。
 衝撃、——違う。恐ろしいほどの、これは——……

「———ケ…おい、この馬鹿、クリスケ!しっかりしろ!何固まってるんだよ!」
「…え、…あ………」
 強く腕を掴まれて、クリスケの瞳が焦点を取り戻す。五感を覆っていた霧が、掻き消えた。戸惑う人々のざわめきや、闇に沈んだ空と街、がくんと下がった気温が、一気に現実として押し寄せてくる。
「何が起きてんだか訳わかんねぇけど…っ!とにかくさっさと帰ろう!ここからならすぐだろ!?」
「わ、わかった…!」
 走れるか、と軽く目だけで問いかけられる。返事の代わりに、クリスケは立ちすくんでいた足で無理やり地面を後ろに蹴っ飛ばしていた。



 もしも空が一枚のキャンバスだったとしたら、その描き手は気が狂ってしまったに違いない。東から西へと押し寄せたその黒い影は、地上ばかりではなく、蒼い空までも、暗く沈んだ色に塗り潰していく。
 ——そう、それは、まるで日食のようだった。
 いつかの昔に、家の隣に住む物知りの青年が、地面に絵を描きながら説明してくれた——初めにくるりと丸い円を描いて、それを端から少しずつ、食べるようにくるくると塗りつぶしていく。最後に、真っ黒に塗りつぶされたひとつの丸を指さして、彼は笑った。
 何十年かに一度、太陽が少しの間だけ闇に飲み込まれて、世界は影を落としたように真っ暗になる。昼の空に星が見えるようになる。でも、それはほんの少しのことで、すぐに昼と光は戻ってくる。ちょっとした魔法みたいなもの。だから、恐がらなくても良いんだよ、と。

「(でも、太陽は)」
 急激な明るさの変化に目がついていけず、暗闇に沈む道を必死に走り抜けながら、クリスケは空を見上げた。
 闇が晴れる気配はなく、太陽も、さっき見上げた時と同じに、天に白く輝いている。星だって、どこにも見えない。なのに、どうして、どうしてこんなに世界が暗いのだろう。
「くっそ、走りづれえ……!」
 クリスケの一足先で、ノコがじれったそうに舌打ちをした。ただでさえ狭いこの辺りの路地に、不安に襲われた街の人々が大勢飛び出してきているのだ。先へ進もうと思っても、すぐに人の波に道を塞がれてしまう。ノコの背中に焦りが滲み始めたのを見て、クリスケは声をあげた。
「…っ、ノコ、オイラの後ろに…!小回りならオイラ得意だから……っ」
「悪い、頼むわ……ちくしょ、道さえ開けてたらひとっ走りなのによ…!」
 お互いに息を切らせながら、場所を入れ替える。今までノコの背中で隠れていた視界が開けた。その光景に、クリスケは思わず顔を歪めた。
 擦れ違う人という人の顔に浮かぶ、不安と動揺、怯えの表情。小さな子どもの泣き叫ぶ声、誰かの名前を呼び合う声が飛び交って、怒鳴りあわなければまともに声が聞こえない。
「(——落ち着けっ…)」
 痛いほどに全力疾走を続ける心臓を、服の上からぎゅっと抑える。パニックになってしまったら、多分、もう駄目だ。——そう言い聞かせているのに、人の不安に震える大気が、嫌な想像ばかりを掻き立てる。
 …そう、たとえば。
 もし少しでも油断したら、一瞬でもはぐれてしまったら、

 もう、二度と会えないんじゃないか?


「……っ…!」
 擦れ違いざまに、誰かと思い切り肩がぶつかって、クリスケの視界が大きくぶれた。その瞬間、人と人の間にちらりと見えたものに、その目を大きく見開く。
「——ノコ、あれ!!」
「ぎゃっ!?」
「いだっ!」
 急ブレーキをかけて振り向いたせいで、全力でノコと正面衝突してしまったが、正直かなり痛いが、今はそんなことに構っていられない。何か文句を言われる前に、と急いでクリスケは路地の一角を指さした。
「あ…あれ……っ、あの道、確かちょっと遠回りだけど家に続いてたよね!?」
「ぁあ!?」
 明らかに1オクターブ低い声を出しながら、ノコがその示す先を目で追いかける。そして、合点がいったのか表情が輝いた。
 狭い路地に立ち並ぶ家々の、その間に隠れるようにして伸びる、さらに細い一本の裏道。……道、というよりは隙間、と呼んだ方が良いかもしれないそれは、この騒ぎの中でも変わらない静けさを保っていた。流石に、こんな何処へ続いているか分からない道を通ろうとする人はいないらしい。それとももしかしたら、この闇に紛れて誰も気が付いていないのかもしれない。
「二人くらい、ならっ、なんとか…通れるかな…!」
「…っは…こっちの道で足止め食ってるよりはよっぽど…マシだろ!あんな道、まず普通通ろうとか思わないぜ…っ!」

 人の流れる方向に逆らい逆らい、なんとか二人でその真っ暗な裏道に転がり込んだ。
 街のざわめきがどこか遠くなり、クリスケの背中に、冷たい壁の感覚が伝わってくる。今の今まで、呼吸することを忘れていたような錯覚に襲われて、クリスケは上がりきった息を必死に宥めた。荒い呼吸がもう一人分聞こえるから、きっとノコも同じような状況なんだろう。
「はぁ…っ、……パタラの奴は…ちゃんと家に着けてるんだろうな…落っこちたりしてないだろうな……?」
「…わかんな、い……でも、空を飛んでったんだから…っ、きっと今頃もう帰ってるんじゃない、かな…」
 それは、そうあって欲しい、という願いでしかなかったけれど。
 空を見上げる。狭過ぎる路地から見上げる空はますます暗く、太陽を見つけることも出来なかった。…多分、建物の影に隠れてしまっているんだろう。

「………この道…」
 ふいに、ぽつりとノコが呟いた。
 視線を向けたクリスケを見返して、複雑な表情に顔を歪める。かろうじて分かったのはそれだけ。暗い闇が邪魔をして、その陰影がよく分からない。
「確かさ、結構昔に…チビ達が探検ごっこだとか言って家を抜け出して、全員で迷子になりやがって、この道で泣いてたんだよな……こんなに家の近くなのに全員でわーわー泣いてて……、まあ、そのおかげでお前が見つけたんだったよな?」
「……うん」
「そうだよな…そりゃ怖かっただろうよ……こんな、こんなさ…」
 がしがしと、小さく髪を掻き毟る音がした。
「……なあ、クリスケ、大丈夫だよな? 別にただ、ちょっと暗くなっただけだよな? 誰も怪我したりしてる訳でもねぇ……そうだ、ほら、キノラスも言ってたじゃんか。なんか、なんだっけ…日食、だっけ? でも、それはほんのちょっとの間のことだ、て……。はは、なんでみんなこんなにビビってんだろうな」
 少しずつ、ノコの声が弱くなっていく。入れ替わりのように、互いの呼吸の音だけが大きく聞こえた。
「なあ、なんでだ、なんでこんなに寒気がするんだよ? 別に俺、暗いのなんて普段は怖くねぇのに、こんな……っ」
「……っ」
 ノコの中で張りつめていた糸が、ぶつんと切れてしまったようだった。
 がむしゃらに前へ前へ進むことで抑えられていた感情が、恐怖が、立ち止まった足を絡め取っていく。一緒に引きずられそうになって、クリスケはぎゅっと目を瞑った。今ここで自分まで恐怖に囚われてしまったら——……。
 唇を噛む。瞼の裏の真っ暗闇の中で、頭を抱えるノコの姿が見えたような気がして、クリスケは手を伸ばした。震えているノコの手を、思いっきり握りしめる。
 さっき自分を引き戻してくれたのはノコの声だ。なら、きっと。
「——帰ろう」
 自分の声までもが、震えてしまっていませんように。
「みんなと一緒だったら、絶対大丈夫だから、だから……!」
 声の余韻が震えて、沈黙が降りる。
 闇に慣れた目に、ノコがじっと自分を見つめているのが見える。肩が、なんとか深呼吸をしようとしているのも。
 その呼吸を3つほど数えてから、ようやくノコが口を開いた。
「…悪ぃ、もう、平気だ」
 少し震えてはいても、いつもと同じ声だった。思わずクリスケは、詰めていた息を吐きだした。力の抜けた顔で、なんとか笑ってみせる。
「……これでもう、あいこだからね」
「…ちぇっ、せっかくさっきまで俺かっこよかったのに」
 ぎこちないながらも、笑い声が響く。
 これなら大丈夫だ、とクリスケは思った。ここから家まではせいぜい歩いて5分の距離。道が狭い分ちょっとは時間がかかるだろうけど、さっきまでの道を通るよりはよっぽど早く着けるはず。
 みんなは、特に小さな兄弟たちは、どうしているだろう。今頃大騒ぎで、みんな宥めるのに苦労してるんじゃないだろうか。早く、自分たちも帰らなくちゃ。
「行こう、ノコ」
「おうよ」
 ゆっくり、でも出来るだけ急いで、歩き出す。足元がほとんど見えない今、走ったらきっと盛大に転んでしまうだろう。流石にそれはごめんだ。



「…それにしても、さ。なんか俺めちゃくちゃかっこ悪いよなー」
「ノコだけじゃないでしょ、オイラだって最初固まったんだから」
「いや、だってさ、お前は割と普段からあんな感じだから別にそんな…ッてぇ!何すんだよクリスケ!」
「っ痛い痛い!ノコ足の力強いんだからキックはやめてよ、キックは!」

 他愛のないことを、大声で喋りながら歩いた。沈黙、というよりは、今は静寂が怖かった。
 街のざわめきは遠くなり、もうほとんど聞こえない。かろうじて太陽は出ているようで、何となくの方向は分かるのが救いだった。この道はほぼ一本道のはずだが、こんな暗闇の中で迷子にはなりたくない。

 ——それにしても。
「…ねえ、ノコ。さっきさ、寒気がするって、言ってたよね?」
 ふと、耳にひっかかっていたことを、会話の切れ間に聞いてみた。ばつの悪そうな唸り声が聞こえたあと、ノコがしぶしぶ頷く気配が伝わってくる。
「なんていうんだろうな、こう、背筋がぞぉっとしてさ…。なんでそんなこと聞くんだよ?」
「……オイラも最初、空が暗くなってくの見た時に、動けなくなったから…同じだったかな、って」
 クリスケの場合、背筋を寒気が駆け降りる、そんな表現では足りない程だった。心臓を氷で押しつぶされたような、衝撃。声を上げることも出来なかった。そんな、自分でも戸惑うほどの——

「…………あ、れ?」
 あの時の感情を辿ってみようとした瞬間、世界が、ぐらりと揺れた。
 視界が黒く乱れて、見覚えのない、けれど知っている景色が切れ切れに割り込んでは消えていく。
 誰もいない荒野。今のアリウスと同じ、真っ黒な空。静まり返った死の世界。
 ——フラッシュバック。
 その世界が何なのか理解した瞬間、クリスケは今度こそ凍りついた。

「…あの……夢……?」
 小さな、喘ぎ声と言った方が良いのかもしれない呟きを聞きとめて、ノコが振り返る。そして、下を向いて立ち止まっているクリスケに、少し不安そうに眉を寄せた。
「…クリスケ? どうしたんだよ、さっきお前が俺に」
 帰ろうって言ったんじゃないか、と続けようとしたノコの言葉は、クリスケに届くことは無かった。狭い路地に、悲鳴にも似たクリスケの絶叫が響き渡る。


「逃げてぇえ—————ッ!!」




 大地が、轟音と共に、跳ね上が





———……。









———————————————————————————————————








「……滑稽な世界よ」

 アリウスの街の中心に聳え立つ時計台の、その天辺。桃色の長い髪と、真っ黒なドレスが、高い空を往く風に翻る。
 自らの後ろに、三つの影を従わせた影の女王は、汚いものを見るかのように目を眇めた。自分が降り立ったことで影に包まれはしたものの、今の今まで、光のように輝いていた街。世界。——もう何度も、見慣れた光景だ。
 遠くから、さざめくように街の者のざわめきが聞こえる。不安の滲むその声が、心地よかった。
「…女王様、いかがなさいますか?」
「ふむ」
 考えるかのように、女王は顎の下に手を添えた。そして言う。
「今回は長引かせるつもりじゃが——始まりのこの街くらいは、派手に壊してしまおうぞ。大地の根はお前たちが崩してこい。あとはわらわのみで十分じゃ」」
 三人分の返事と、影が消える音を耳に留めて、女王は低く笑った。瞳に赤い光を灯し、両手を空に掲げる。
 魔法の呪文を唱える刹那、呟きが風に溶けて行った。

「楽しませてくれよのう?」


 雷を呼び、風を狂わせ、嵐を巻き起こす呪文。
 大地の崩れた根を穿ち、やがては地の底へ自壊してゆく呪文。



 街から響き始めた悲鳴と絶叫に、女王はうっそりと目を細めた。








>>