ふ、と目を開けると、世界の全てが真っ青な蒼空に染まっていた。

 ぼんやりとした頭のまま、何度か瞬きを繰り返す。まだ意識の端っこに残っている夢の欠片が、非現実的な世界に合わせて、ゆらりと揺れた。
「………ゆ、め……?」
 少しずつ打ち寄せてくる、いつもどおりの街の雑踏に、夢の名残が押し流されていく。ふるふると頭を振りながら身体を起こして、そこでやっと、クリスケは自分が屋根の上でうっかり眠ってしまっていたことに気づいた。
 慌てて空を見上げて、太陽を探す。街の中央にそびえる城の、一番高い塔の真上から、東に少しだけ動いた場所——最後に見た太陽は確か、まだ塔の東の低い空に輝いていたから、どうやら3時間以上、この場所で眠ってしまっていたらしい。

「——あ、……しまった、お昼の買出しまだやってないっ…!?」
 もうすぐお昼だ、と気づいたとたん、クリスケは今度こそ飛び起きた。普通に帰れば暖かいご飯が待ってくれている家とは違って、自分はそうは行かないのだ。
 今朝、『家』を出てくる時に頼まれた買い物リストを記憶の中から引っ張り出しながら、今は空き家になっている家の屋根から飛び降りる。

「えーと、…牛乳と、あとパンと蜂蜜とキノコと、なんだっけな、……確か胡椒?だっけ? ああもう、キノエさんもこんなにいっぺんに頼まなくたって良いじゃんかぁあ……」
 危なっかしく指で数えつつ、白い石畳が敷き詰められた路地を走りぬけて、とんとんと段差を飛び降りていく。やたら段差の多い造りのこの街を、クリスケはちょっとだけ恨んだ。(未だに仕組みは良く分からないけれど)橋の代わりに宙に浮き上がってゆっくりと往復する石の床も、急いでる時はじれったくて仕方がないし、あと転ぶと地面が硬いから本気で痛いし。コケるのはお前がそそっかしいせいだろ、とか笑われたし。あ、これは街じゃなくてノコが悪い。

 ぐるぐると胸の内で文句を言うことに集中していたせいで、クリスケは角を曲がった時にそこに人がいることに気づかなかった。

「あ」
「え?……ふぎゃっ!」

 顔を上げた次の瞬間、鈍い衝撃。と、痛み。主に鼻に。
 どうやら正面衝突したらしく、クリスケはなんとか足を踏み変えて、後ろに引っくり返りそうになった身体を支えた。じんじんと痛みを訴える鼻を押さえつつ、若干涙目になった目を瞬く。
「…っ、うう、ごめんなさ、」
「いって……って、クリスケ? おまえ、こんなとこで何してんだ?」
「へ?……ノコ!?そっちこそなんでここに…」
 焦点の戻った目に、太陽の光を閉じ込めたようなツンツンの金髪が映る。すっかり見知った、同じ『家』の『兄弟』の姿。ノコノコ族特有の、硬い皮鎧のような服を着ている彼に、ああアレにぶつかったんなら確かにこれだけ痛いよなぁ、とクリスケは一人納得した。
「俺は迷子になったチビを探しにきた途中。ま、いつものことだから、そのうち見つかると思うけど——ていうかまず、何で手ぶらなんだよおまえ。朝に買出し頼まれてなかったっけ?」
 質問に質問で返されたノコが、肩をすくめながら苦笑する。そのままびしっと一番痛いところを指摘されて、クリスケの顔に汗が伝った。

「……う、えーと、いやそのこれはー」
「忘れてた?」
「訳じゃない…んだけど、……寝てた。ぐっすり」
「ははーん、ついさっきまで寝てて、起きて、ぎゃーってなって慌てて走ってきたんだろ。良かったなー、ぶつかったのがその辺のゴロツキとかじゃなくて俺で」
「…うう、どうせオイラはねぼすけだよ……」
 によによ、という形容が一番似合う視線を向けられて、どんよりオーラをまとわせたクリスケは溜息をついた。…またちょくちょくこれをネタにしてからかわれるんだろうな、という脳裏に掠めた残念な予感をひとまず脇に押しやって、もう一度、眩い快晴の空に輝く太陽を見上げる。さすがにこれでは、正確な時刻までは分からない。

 つられて空を見上げていたノコに、クリスケは尋ねた。
「今何時くらいか、分かる?」
「んー、さっき確か随分鐘がなってたけど……正午の鳴り方じゃなかったからな。11時過ぎってとこか。二人で急げばギリギリ間に合うだろ」
「え」
 手の平で顔の上に影を作りながら、ノコがさらりと答える。その中に、予想していなかった単語をひとつ聞きとめて、クリスケはきょとんとノコを見返した。……二人?
「ま、俺も昼飯が遅くなんのはの嫌だしな。おまえ一人じゃ頼りないから、チビ探しのついでに手伝ってやるさ!」

 そう笑って背中をばしばしと叩かれて、思わずクリスケも声をあげて抗議混じりに笑った。



 二人とも、両親がいない。むしろ、身寄りがいない。
 元々、外からやってくる人が多いこの街——王都オーシャル・アリウスは、両親を除けば血縁の人はいない、という子供が多い。それ故にこうして、事故や病気で親を失ったり、それ以外の様々な理由で、一人になってしまう子供も多い。
 だけど、その子供たちに差し伸べられる手もまた多く、クリスケも、ノコも、そんな身寄りの無い子供を引き取って育てている『家』の一員だった。
 もっとも、昼に親が働いていたり、入院したりするなど、そんな理由から一時的に『家』に預けられている子もいるし、もっと気軽になると、親の出かける用事から一日限定で預けられる子もいる。どうも普通のそういう孤児院や、児童養護施設と多少体裁は違い、もうちょっと大雑把なものらしい。
 それでも、その中で注がれる愛情はきっと、同じだ。








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「メイシーさん、今日は何作ってくれるんだろうなー」
 小走りにいくつかの路地を通り抜けては、目当ての食材を並べている店へ飛び込む。お昼どき、一日の中でも特に人通りの多くなる商店街は、通り抜けるだけでちょっとした冒険だ。
 客を呼び込む声、値切り交渉のにぎわいに、大きな買い物かごを持って早足で歩く人々のざわめき。
 白い石造りの建物が、日の光を反射して輝く。
 この眩しい時間が、クリスケはとても好きだった。

「——ショートカット、っと!」
 随分量が増えた紙袋を、腕の中でかさかさと鳴らしながら、クリスケはまた一つ、高い段差をぴょんと飛び降りた。すばしっこさでは少々クリスケに負けるノコが、後から慌てて飛び降りてくる。
「…っ、おまえな、ちょっとはノコノコの俺も労われよ!クリボーみたいに身軽じゃねぇんだから!」
「あ、ごめんごめん。いっぱい走ったからお腹すいちゃってさ。待ちきれなくて」
 少々恨めしい視線を送られて、とっさにクリスケは片手で謝罪した。笑いながらのソレは、大分適当なものだったが。
「ねえ、ノコは今日の昼ごはん何だと思う?」
 やっと追いついてきたノコに歩調を合わせながら、クリスケは問いかけた。
「んー? 昨日の飯の材料の残りが結構残ってるって言ってたしな。あと確か胡椒切れてるって言ってたから……うーん……俺はカレー予想だな。ていうか、単にカレー希望」
「やっぱり切れてたんだ、胡椒」
「おう、俺昨日料理当番だったからな、多分これは確実。…おまえ、買ってくるモンちゃんと覚えてるんだろうな?」
「……た、多分」
「多分かよ……」

 一気に勢いを失ったクリスケの返事に、ノコも力の抜けたツッコミを返す。一つ溜息をついてから——ふと、ノコは進む足を止めた。
「……? ノコ、どうしたの?」
 並ぶ影が離れたことに気づいて、クリスケが振り返る。しばらくの間、あーだのうーだの言葉にならない声を並べていたノコは、やがて、観念したように額に手をやり、口を開いた。

「ああなんかもう、面倒だからストレートに聞くけど。……お前、最近、寝れてっか?」
「……え」
「昔から、お前が昼間…っていうか朝?から、ともかく夜じゃない間に寝てる時って、大抵、夜にうなされて寝れてないことが多かっただろ。昨日も、チビたちと一緒にくーすか昼寝してたし…。また、なんか怖い夢でも見てんのかと思って」
「…えーと……」
 心配そうな響きの声色とノコの視線に、クリスケは困ったようにうろうろと視線を泳がせた。きっと多分、ノコはずっとこのことを聞くタイミングを探していたんだろう。
 何故かは自分でもよく分からないが、クリスケは、自分に心配という感情が向けられることが少し苦手だった。なんでもないよ、だから大丈夫、そんな顔しないでよ、といつも言いそうになってしまう。そのことが、余計相手を心配させてしまうことに、彼はまだ気づいていない。
 だから今度も笑って、なんでもないよ、と言おうとして——。……少し考えてから、諦めて小さく頷いた。どちらにしろ、ノコには簡単に見破られてしまうだろう。

「ちょっと、ね……そんなに言うほど怖い夢って訳じゃないんだけど。目が覚めたら、どんな夢だったのか忘れちゃうし。でも、なんか……真っ暗で、寂しくて、寒くて…ひとりぼっちみたいな……そんな感じの夢で」

 どこまでもどこまでも、暗い闇が続いている、ような。そしてその世界には、自分以外誰もいないような。そんな錯覚に陥る、夢。
 ここ最近、ずっと続いているその夢は、思い返そうとするほど記憶が逃げてしまうようで、内容についてはほとんど覚えていない。ただ、その夢を見て、目を覚ましたとき。周りがしんと寝静まった、真っ暗な夜だと、寝ぼけた自分には夢と現実の区別がつかなくなってしまうのだ。

「それで、最近は夜寝るのがちょっと怖くてさ…なんか結果的に、昼とか朝とかうとうとしちゃうんだ」
 苦笑したクリスケを、ノコは相変わらず心配そうに見つめていたが、やがて、いたずらっこのようににやりと笑った。
「おまえの夢、昔からバラエティ豊かだよなー。大変だねえ、ロマンチストは」
 ずごーん、と効果音を立ててタライが落ちてきたような表情で、クリスケの動きが固まった。数瞬置いてやっと我に返ったらしく、あわあわと表現の訂正を始める。

「ちょ、えええ、その言い方酷いよ!? オイラ結構困ってるのに!せめて言うなら、もっとこう、想像力が豊かだとかなんとかさあ…!」
「いやいや、俺なりに超褒めてるんだぜ? で、大変だなぁって俺的最大限の労わりと友愛をだな」
「正直全然嬉しくないよそれ!」
 クリスケにべしべしと腕を叩かせるままにしながら、ノコはからからと笑った。そしてその視線を上げた体勢のまま、青空を飛んでくる小さな影を見つけて、思わず声をあげる。
「お」
「へ?なに?」
 つられて空を見上げたクリスケは、一直線にこちらへ飛んでくる影を見つけて——

「クリスケにーちゃ——ん!!」
「…パタラ!?…って、ちょっと待って、……うわぁあああ!!」

 次の瞬間、小さなパタパタの子供とはいえ、上空からの強力なタックルを受けて後ろに引っくり返った。
 がらがっしゃんという派手な音と共に地面に伸びてしまったクリスケに一度合掌のポーズをしてから、ひょいとノコは地面に屈みこんだ。クリスケの胸の上にしがみついているパタラを抱き上げて、視線を合わせてにっこりと笑う。
「よーチビすけ、やっぱりこの辺で遊んでたのか。キノエさんが探してたぜ?」
「だってー、キノエねえちゃん、そんなに高く飛んじゃだめなんて言うんだもん。おれもっといっぱい飛んで、パレにいちゃんみたいに超かっこいいパタパタになるんだ!その練習してたの」
「おーそーかそーか。パレ兄が聞いたら泣いて喜ぶぜー」

 にこにこと和やかに会話が交わされる横で、ようやくクリスケはのろのろと身体を起こした。そのまま、がし、とパタラの小さな肩を掴む。
「お、今日は復活早いなクリスケ」
「おはようクリスケにいちゃん!キノエねえちゃんがまだ買い物から帰ってこないって怒ってたよー!」
「………、……うううう、もう厄日だ今日…」
 二人分の爽やかな笑顔に、説教する気も失せたらしい。ぺたん、と地面にへたりこんでしまったクリスケの背中をぽんぽんと叩いてから、ノコはひょいと立ち上がってパタラを空に放り投げた。
「とりあえず、昼までにはちゃんと帰るってキノエさんに言っといてくれないか?もう随分近くまで来たけど、それでもお前の方が早く着けるだろうからな!」
 蒼空に舞い上がったパタラに、手を口の前で丸めたノコが叫ぶ。
「えー、おれ今忙しいのに……」
「超特急で家まで飛べたら、それ、超かっこいいパタパタへの第一歩になるんじゃねえの?」
「あ、そうか!わかった!いってくるー!」

 小さい子供なりの全力飛翔で、あっというまに視界から消えたパタラを見送りながら、二人はほぼ同時にため息を付いた。
「…元気、だなあ……」
「まあ、俺たちもあんなやんちゃ時代があっただろ…良いことだよ元気ってのは、うん」
「毎回ひっくり返されるオイラはちょっと複雑なんだけど」
「耐えろ。頑張れ」
 うええ、と呻き声で返事をしてから、なんとかクリスケは立ち上がった。衝撃で周りに散らばってしまった紙袋の中身を元に戻して、パタラが消えていった空を見上げる。ちょうど、城の塔の、ほぼ真上に近い空で太陽が輝いていた。
「もうすぐ正午、だね。ご飯間に合うかな」
「なんとかなるだろ。良かったなー、牛乳と胡椒のビン、俺が持ってて」
 くすくすと笑って、クリスケは砂埃の付いてしまった長い上布をはたいた。今頃、家ではたくさんの兄弟がお腹をすかせて待ってるんだろう。もし牛乳のビンが割れていたら、さすがにお昼には間に合わなかったかもしれない。胡椒だったら……。

「…運が悪かったら、オイラたち今頃くしゃみで大変だったかもねえ」
「パタラもな。あー、でもいっそそれくらいやってくれた方があいつも懲りてくれたかもな」
「本当にね。言ったって聞いてやくれないんだもん…」
「いやあ、それはお前がお前だからだろ」
「………」
「じょーだん。俺でもあいつなだめるのは無理だよ。だからそんな恨めしい顔するなって」

 数歩先で足を止めてくれていたノコが、楽しそうに苦笑した。
 文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、多分、余計にお腹がすくだけだよなあ、と心の中で溜息をつくだけにしておく。…まあ、いっか。

 ——ここから家までは、あと歩いてせいぜい10分くらいだろうか。
 紙袋を抱えなおして、追いつこうと、歩くペースを少し早くした瞬間、

 背筋を、ざっと音をたてるかのほどの、寒気が駆け下りた。




 思わず足を止めたクリスケなど気にも留めず、正午の鐘が、がらん、がらんと鳴り響く。

 そして、東から、世界を覆い尽くす影の波が押し寄せてきた。







next…