足元が、ミシリ、と呻く音がした。
「……っ…! ……!!」
「が、頑張れ、あと一足分も無いから! …あっ、クリスケ、下見たら駄目だって…前だけ見て、前だけ!」
 橋と呼ぶにはあまりにも頼りない厚さしかない板切れの上で、クリスケは固まっていた。すぐ目の前、手を伸ばせば届きそうな距離には、硬い石組の小島が待っている。でも、自分の真下と両脇に広がる真っ暗な海には、あの巨大すぎる魚が泳いでる訳で、もし万が一今板が真ん中から折れたりしたら落っこちるしかない訳で、もしも落ちたら、
「グ、グリム、ちょっと、もう、駄目かも、……うわっ、——っ!!」
 また足元から軋む音がして、気が付けばクリスケは無我夢中で跳んでいた。後ろからグリムの悲鳴混じりの声が追いかけてくる。
 足先が、硬い石組に触れて、やっと胸を撫で下ろしたのも束の間、クリスケはグリムにたっぷり叱られた。


「……全く、もう、もしあれで板切れが割れてたら、僕も困ったけど、クリスケが一番大変だったんだからね。帰れなくなるところだよ」
「ご、ごめん……反省してます……」
 クリスケに続いて、なんとか板切れを渡りきったグリムが、深い溜息をつく。
 石の小島は見かけよりも小さく、二人が並んで立つとそれだけで精一杯になってしまうほどの横幅しかなかった。足元が割れて海に真っ逆さま、という悪夢の心配はなくとも、バランスを崩したら相変わらず海に落ちてしまいかねない。溜息ついでにグリムが小さくぼやいた。
「……これで抜け道が無かったら、きついなぁ」
「グリム、頼むからそういうこと言わないで…」
「分かってはいるけど……」
 小さな魔法灯のあかりでも、全てを照らしてしまえるほど小さな島。足元には石組があるだけで、抜け道の気配は何処にもないのだ。二人とも、身をもって経験した、あの、蒼い発光と共に浮かび上がる魔方陣や、その周りを蛍のように跳びかう淡い光。そんなものは、どこにもない。でも、カーレッジが言っていた抜け道の場所は、間違いなく此処のはずなのだ。
 しばらく、考え込むように口元に手をあてていたクリスケは、ふと、ランタンの光を足元に向けた。
「…15列ある」
「……なにが? どうしたの?」
「その、石組の数がね、縦も横も15列ずつになってるんだ。…もしかしたら、」
 しゃがみこんで、石組の表面に目を凝らす。端から順々に数を数え、クリスケは目を見開いた。左から7列め、そして下から7段め——小島の中心にあたる石が、微かに、凹んでいる。記憶が閃いた。何か思うよりも早く、クリスケは手を伸ばし、その石をぐっと押し込んでいた。
 足元が砂になって、消えた。
 突然、石組の代わりに広がった奈落の暗闇に、呆気に取られる間もなく、クリスケとグリムは石壁のトンネルの中に落ちていった。





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 目を開くと、暗闇だった。
 しばらく、ぼんやりと瞬きを繰り返してから、ノコはゆっくりと身体を起こした。ここ何日かずっと寝ていたせいで、背中がギシギシと軋む。年寄りじゃあるまいし、と口の中でブツブツ呟きながら、辺りを見渡す。目が慣れるにつれ、部屋の入り口の方が薄っすら明るいことに気づいた。廊下から、微かに魔法灯の光が差し込んでいるのだろう。……ついでに、入り口の傍の椅子に深く腰掛けて、キノエが居眠りしているのも見つけて、ノコは溜息をついた。重く熱っぽい身体を引きずり、キノエの肩を揺さぶる。
「おーい、首がガチガチになっても知らねぇぞー」
「んー、……ん、あ、あれ? …っで、いたたたたっ、うわぁなにこれ…! ガッチガチじゃない、もう……!」
「こんなとこで寝るからだろ」
「えっ? ああ、なんだ、起きてたの?」
 起きると同時に悲鳴をあげて大騒ぎしていたキノエが、はた、とノコを見上げた。なんだか言いようのない脱力感に襲われつつ、肩を竦める。
「ちょっと水飲んでくる。大分動けるようになったし」
「そう? それは良かったけど。まだ熱があるんじゃない?」
「結構下がったような気がする」
 適当な言葉を返しつつ、ふと途中で足を止めて、ノコは振り返った。
「あいつらは?」
「今日も出かけてるわ。まだ帰ってきてないの。いつもならそろそろ帰ってくるんだけど」
「…そっか」
 小さな声で呟く。こんな時に体調を崩した自分への情けなさや、クリスケとグリムへの心配で、胸が塞いだ。あいつらなら、多分、大丈夫、……だろうけど。早く帰ってこねぇかな。
 嫌な夢を見たのだ。真っ暗闇の中を、走って走って、逃げていく。方向感覚も距離感もない世界を。後ろから追いかけてくるのは、高笑いだった。一ヶ月前に聴いてから、耳にこびりついてどうしても離れない、あの、女王の高笑いが、ずっと追いかけてくる。……別に、似たような夢ならもう何度も見ているし、今更どうということは、無い。のだけれど。
「ビビってんのか、俺」
 水を汲みながら、溜息をつかずにはいられなかった。





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 目を開くと、ランタンがぷかぷかと浮かんでいた。
 一瞬、意識が飛んでいたらしい。クリスケは、自分のお腹の傍を暢気に浮かんでいるランタンをぽかんと見つめてから、慌てて辺りを見渡した。意識が飛ぶ前の記憶が一気に戻ってくる。確か、そう、いきなり地面がなくなって——そこまで思い出して、クリスケは絶句した。落ちた、はずなのだ。どこかに。なのに、足の裏に地面の感覚がない。
 訳が分からなくて、足をがむしゃらに曲げたり伸ばしたりしていると、とん、と背中を叩かれた。反射的に振り返り、クリスケは、今度こそ呆気に取られて口を開けた。見慣れた皮のサンダル。……目の前に、なぜかグリムの爪先が揺れていた。
「クリスケ、あんまり足動かさないで…当たるから……」
 足元から声が聞こえて、視線を下げてみると、呆れたような表情のグリムと目が合った。顔が、自分の足よりも下にある。……下にある?
「な、なんで、グリム、逆さまになって」
「……僕が一番君に聞きたいんだけど、」
 溜息をついて、グリムが腕を伸ばした。クリスケの傍に浮いていたランタンを引き寄せ、視線を巡らせる。
 魔法灯の蒼い光を照り返し、上にも下にも、どこまでも、石組の壁がぐるりと広がっていた。
 しばらく壁を見つめていたグリムが、呟く。
「クリスケ。多分、逆さまなのは君のほうだよ。僕ら、今もまだ、落ちてる真っ最中みたいだ」
「え、……ええ?」
「ほら」
 空中で、なんとか体勢を変えたグリムが、クリスケにランタンを手渡す。改めて、辺りを見渡してみて、クリスケも石壁の継ぎ目が動いているのに気づいた。
 指先で触れてみると、移動してゆく継ぎ目が感覚として伝わってくる。けれど、少し力を入れて継ぎ目の間に指を引っ掛けてみると、それは止まった。代わりに、グリムが自分よりも上——クリスケにとっての——へ、浮いていく。……沈んでいくと言った方が良いのかもしれない。つまり、自分の頭が向いている方向が下で、壁が動いているのではなく、自分達が何処かへ落ちているのだ。ゆっくりと、あまりにも緩やかに。それは、落ちるというよりは、水の中へ静かに沈んでいくような感覚だった。
「どうして、いきなりこんな…。……クリスケ、さっき、何したの?」
「……石組の真ん中を押してみたんだけど」
「…それだけ? じゃあ、ここは、さっきの石の小島の地下ってことに…そんな馬鹿な。それじゃ海底だよ。なんだろう、なにか、転送魔法の仕掛けにでも繋がっていたのかな……」
 頭痛がする、と言うように頭を抱えるグリムに、クリスケは小さな声で「ごめん」と呟くと、言葉を付け足した。
「カーレッジと抜け道を探しに行った時も、似たような石組の壁があったんだ。あの、階段の手前に、まるで封印の扉みたいに」
「…ああ、そういえば、前はあそこに階段なんて無かったね。……それで?」
「下から7つめ、左から7つめの石を引っ張ってくれって言われて。それで、その石、よく見たら他の石よりも少しだけ出っ張ってて。引き抜いたら、石組が砂みたいに崩れて、そしたらその向こうに階段が続いてて……だからもしかしたら今度も、って」
「……うん、よく分かった。つまり、抜け道を隠している魔法は全部、僕らにとって大体意味不明なくらい高度で珍しいもので、多分ここもそんな魔法でつくられた空間の一種なんだってことだ。……でもさ、クリスケ、次からはそういうことはちゃんと前もって言ってよね」
「了解……」
 苦笑いして、クリスケは、ふと目を瞬いた。——どこかから、風が吹いていた。グリムも風の流れに気づいたらしく、そわそわと辺りに視線を走らせている。
 この不思議なトンネルに放り込まれた驚きが去っていくにつれて、胸の中で膨らんでいく感情があった。魔法のように掻き消えた石組の扉。その先に続く道の、終わりには、
 今度こそ。
「…あのさ、グリム。オイラ達が落ちていってる先って、多分、」
「……もしそうじゃなかったら、やってられないよ。また魔方陣が光ってなかったりしなきゃいいけど」
 努力して抑えたような声の調子で会話を交わしながら、二人は落ちてゆく先をじっと見つめた。ランタンの光がか弱いことが、もどかしい。暗闇の中を、ゆっくりゆっくりと、どこかへ落ちるに任せるしかないなんて。出来るものならば、このトンネルを全力疾走で駆け抜けたいくらいなのに。
「……もし、ちゃんと明るい地上に出れたらさ、グリム、何したい?」
「そうだね、…深呼吸かな、まずは。クリスケは?」
「オイラは、万歳しながら思いっきり走り回りたいなあ。…あー、ノコがいたら一緒にそのあたり転がりまわっても良かったんだけど。治ったら出来るかな。あ、でも、その前に、家のみんな、…というかアリウスの人みんなか、が、ちゃんと地上に出れるようにしなきゃ駄目か。大変そうだなー…」
「多分、キノエさんも、…あと事情を話せば、もしかしたらルーシャンさんも、手伝ってくれるよ。女王にバレないようにってのが大変そうだけど……神官の人たちの魔法もあわせれば、出来ると思う」
「うん。……そしたら、もう、食べ物とか暗闇とか心配ないもんね。そのあとは……まだ、わかんないけど」
 ふっ、と曇ったクリスケの瞳が、一瞬の間を置いて、見開かれた。
 視界の端を掠めるように、蒼い蛍が飛んでいく。グリムが小さく声をあげて、落ちていく先を指差した。
 ——心臓が、ばくばくと鳴り始めた。
 遠くにうっすらと見える蒼い光の輪は、間違いなく、魔方陣を象っていた。


 ゆっくりと、光の輪が近づいてくる。クリスケは、唾を飲み込み、息を止めると、グリムを見やった。視線を返したグリムも、同じように、緊張で真っ青な顔をしている。

 ……どうか、どうか、この先に続く地上が、闇に覆われていませんように。

 互いの手を握り締めて、足を伸ばす。爪先が、魔方陣の光に触れた。蒼い光の洪水が、トンネルの暗闇を弾き飛ばすように、爆発する。視界が焼かれ、意識が遠くなり、


『    』


 誰かが、名前を呼んだ。












 最初に感じたのは、柔らかい地面だった。背中から落っこちた(と、思う)のに、打ち付けたはずの背中はほとんど痛くない。光の爆発を直視したせいで、視界には蒼い光の粒がちかちかと明滅を繰り返している。——何も見えやしない。
 必死で瞬きをして目を擦って、視力を取り戻そうとしながら、クリスケは立ち上がった。隣でグリムが呻いている声がする。…また鼻を打ったのかもしれない。
「っ、痛、」
 何かに頭がぶつかった。おまけに酷く顔を引っかかれて、反射的に腕で払いのける。何かが、ガサリ、と鳴って、ひんやりと冷たいものがいくつか顔に落ちてきた。知っている、その感触に、心臓が跳ねる。これは、
「——グ、グリム、グリム、見て! これ!!」
 何枚か引きちぎると、梢がガサガサと迷惑そうな音を立てながら、大きくしなった。まだ目を擦っているグリムに、無理やり握らせる。硬直する気配が伝わってきた。
 少しずつ、視界が、色と輪郭を取り戻していく。手の平に握り締めた木の葉は、微かに萎れていても、眩しい緑色をしていた。……足元に影が落ちている。泣きそうになりながら、クリスケは空を振り仰いだ。森の中、広がる梢の天井の向こうに、懐かしい青い色が、確かに見えた。
「…黒く、ないよ……。グリム、見える? 空、ちゃんと、黒くないよ……!」
「うん、…もう、見える……。…はは、良かったよ、クリスケが一緒で…そうでなきゃ、夢だって、…思ってるところだから……」
「夢じゃないよ、夢なんかじゃないよ! どうしよう、グリム、ちゃんと草も生えてる、きっと水も畑も人の家も残ってるよ、…よ、良かった、まだ、ちゃんと、残ってた……!」
 呆然と空を見上げたまま、動けなくなってしまったらしいグリムの肩を掴んだまま、クリスケは地面に膝を付いた。安堵で潰れそうな胸に、何人もの顔が浮かんでは消える。ノコが、キノエさんが、家のみんなが、アリウスの人々が、どれだけ喜ぶだろう。それから、そう。カーレッジも、喜ぶだろうな。これで、ひとまずは、もう、大丈夫だ……


 ひとしきり、泣いてから、辺りを歩き回ってみると、色々なものを見つけた。どうしても小ぶりなものになってしまっていたけれど、木の実もあったし、花も咲いていた。鳥の鳴き声が微かに聞こえた。思っていたよりもずっとすぐに森は切れて、視界いっぱいに平原の緑が映った時は、また、泣いた。街道も、人の足跡も残っていた。誰かに出会うことは出来なかったけれど、木に登ってみると、平原の彼方に、村の屋根が見えた。煙突からは、薄っすらと、煙が立ち昇っていた。
 空は、青かった。ただ、記憶の中のものよりも、微かに暗くなっていた。雲ひとつない快晴なのに、太陽を見上げても、眩しくなかった。——それでも、充分だと思った。

 空が赤みを帯びてきた頃になって、やっと我に返って、二人は慌てて来た道を駆け戻った。梢のドームに守られ、光を誤魔化すように、自らの上に沢山の葉を被った魔方陣。その中へ足を踏み出す。
 クリスケが抱える布袋の中には、ランタンと、葉のついた小枝、熱冷ましの薬草の束が詰め込まれていた。





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 銀磨きの布を折りたたみながら、ルーシャンはぼんやりと宙を見つめていた。自分の顔を映すほどに磨き上げた銀の杖が、椅子に立てかけてある。そして椅子の周りには、積みあがった本の山。幾冊かは床に雪崩落ち、古びたページを天井に見せている。
 ここは、時計台の中にある小さな書庫だった。この部屋に閉じこもって、もう数時間になる。グリム達と別れてから、…別に一日フリーパスを貰ってるのだから家でのんびり趣味に耽ってても良かったのだけど、結局、戻ってきてしまったのだ。「メダル、もう見つかったんですか!? 凄いです、ルーシャン神官、…あっ、あと、おつかれさまです! ああ、見つかって本当に良かった…あのひと、喜んでましたか?」なんて、クォリの純粋な煌きに満ちた眼差しに迎えられて、やっぱり来なきゃ良かったかなぁと一瞬後悔したりもしたが、…まあ、さておき。
 何度目かのため息をついて、ルーシャンは呟いた。
「どーしたものかなぁー」
「……、…お悩み事ですか?」
「ん?んんー、まあ、悩み事と言うかー…って、うおわッ、クォリ神官いつからそんなとこにっ!?」
 あどけない声に、つい適当に返事を返してから——ルーシャンはびくうっと身を竦ませて勢いよく振り返った。拍子に、思い切り椅子に激突して、杖と本が両者とも派手な音と共に床へ墜落し、足の小指を強打したルーシャンもそれに続く。……そんな光景を、壁の傍に佇んでいたクォリは呆然と見つめていた。数瞬遅れてやっと我に返ると、青ざめながらわたわたと言葉を並べていく。
「…え、あっ、ええと、10分くらい前からですがその、ルーシャン神官が一心不乱に杖を磨かれている時は考え事をされている時だと聞いてましたのでっ、お邪魔したら申し訳ないかと、でもあんまり深刻そうだったので、その、お邪魔してごめんなさいっ!!」
「あ、あー、ごめんね泣かないでクォリ神官…今のは間違いなく僕が悪いし、ちょっと驚いちゃっただけだから…」
 足の小指を摩り摩り、ルーシャンはなんとか笑ってみせると、立ち上がった。積み上げていた本のほとんどが床に雪崩れてしまっている。拾い上げようとすると、慌てた様子でクォリが駆け寄ってきた。
「お手伝いします。……ルーシャン神官、本当にすみません……」
「もう、気にしないでいいんだよー。考えすぎて頭痛くなってたところだし、ちょうどいい気分転換になったくらいさあ」
 ふにゃっと笑いかけると、クォリもやっと少しだけ笑ってくれた。散らばってしまった本を手際よくまとめ、巻数を揃えていく。慌て者だけど要領は良くてしっかりものなんだよなぁ、なんて、感心して眺めていると、ふいにクォリの手が止まった。本の背表紙の列をしげしげと眺め、首を傾げている。
「どうかした?」
「あ、いえっ、……その、ルーシャン神官は、民間伝承に興味がおありなんですか? アリウスの街に伝わるものだけで、こんなにあったので」
 不思議そうな表情を向けられ、ルーシャンは頭を掻いた。
「…うーん、ちょっとね、調べごとを…みたいな…?」
「調べごと……?」
 きょとん、と言葉を鸚鵡返しにして、クォリが首を傾げる。そして、何かを問おうとして口を開きかけ——戸口を振り返った。
 騒々しい足音が、階段を駆け上がってくる。なにごとか、と廊下に顔を出したルーシャンは微かに目を瞠った。玄関守に当たっていたはずの神官仲間——ルキノが、ぜぇぜぇと息を荒げ、真っ青な顔色で辺りを見回している。ルーシャンと目が合うや否や、駆け寄ってきた。
「…パルナッタ神官長は! 神官長がこちらに来ていないか!?」
「神官長が…?」
 眉を潜めて、念の為に部屋を振り返ると、クォリが不安げな表情を浮かべながらも、首を振った。
「…僕もクォリ神官も見てないです。……なにか、」
 あったんですか、と問いかけるより先に、無言で手渡されたのは——真っ黒な巻紙だった。真っ黒な紙面に踊る、赤い文字列。背筋が、すうっと冷えた。これは、
「女王から…?」
「……何故、今更、こんなものが出されたのかは分からない。ただ、今、闇の城の者たちが、アリウスの家一つ一つにこの紙を送りつけて回っているそうだ。徹底的に全員に認知させるつもりらしいな。……とにかく、私は神官長を探してくる。早いところ何か手を打たなければ、街の人々が、今以上に怯えて……。取り乱して悪かった。クォリ神官、しばらく玄関守を頼んでも良いか」
「…あ、はい!大丈夫です! ……」
 返事を返しながらも、クォリの声が、微かに震えていた。怯えるように、ルーシャンの手の中の巻紙にチラチラと視線を走らせている。文字列が、見えそうで、見えない……
 
 巻紙を手に、足音高く駆け去っていくルキノの背と、心細そうに何度も振り返りながら玄関に向かうクォリの背中を見送ってから、ルーシャンは長く息を吐き出した。しばらく宙を睨んでから、階段を下りる。玄関の傍に不安げに佇んでいるクォリの肩を叩き、少し出かけてくるよと呟いて、扉を開け放った。銀の杖を握り締め、トン、と一度地面を叩いてから——気配を消す魔法を自分に掛けてから——走り出す。

 なんとなく、察してはいたのだ。あの二人が探しているものが何なのか。でも、まさか、と思って、真剣に取り合わなかった。……今はもう、港で別れた二人が、どうか無事で家に戻っていてくれるようにと、祈るしかない。
 影の女王が送りつけてきた宣言を反芻しながら、ルーシャンは悔しそうに顔を歪めた。


『地下の安寧なる美しき暗闇に抱かれた我が街から、一歩でも外へ逃れる者、また、それを試みようとする者へ告ぐ。——我が暗闇を拒むこと、すなわち、童への反逆である。童の血族は、速やかに彼の影より現れ、制裁を与えよう。彼の者は、童の美しき竜が住む奈落へ落とされ、命尽きるまで、竜と闇に愛でられるであろう。——我が暗闇を受け入れること、すなわち、童への忠誠である。美しき暗闇に沈んだ、真珠の街の民は、命尽きるまで平穏な生活が約束されるであろう。』





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