がり、と音を立てて、またひとつバツ印を刻む。すっかり古ぼけたアリウスの地図の上で、クリスケはグリムと二人、黙々と作業に没頭していた。
 アリウスのあちらこちらに、○の印が散らばっている。けれど、その内の半分近くは、バツの印で塗りつぶされ、傍に細かく走り書きがしてあった。瓦礫で進めない、目印が見つからない、魔方陣が光ってなかった、などなど。
 木炭の先端でひとつの○印を突付き、クリスケはため息をついた。
「ここも駄目だった。アリウスの外れほど崩れ方が酷いって聞いてはいたけど……ここまでなんて思わなかったよ」
「……やっぱり、アリウスの中心部にあるものから探していった方が早いんじゃないの?」
「でも、出来ればお城には近づきたくないし……」

 二人がひそひそと会話を交わしているのは、ノコの寝ているベッドの裏側、ちょうど戸口から顔を覗かせたくらいじゃ見えないところだった。床にぺったりと座り込み、さらに自分たちの身体で地図が隠れるようにしている。クリスケがちらりと顔を上げると、戸口の傍で、椅子に腰掛けたキノエが足をぶらぶらさせているのが見えた。クリスケと目が合うと、にやりと笑ってみせる。ノコの看病をしているフリ(いや、実際にはそれもしているのだが)をして、この部屋に誰も入れないようにしているのだ。もちろん、他の兄弟たちがクリスケ達が何をしているのか気づかないように。

「でも、二日間で、半分くらいは確認できたんだから。…しらみつぶしに行くしかないね」
 グリムの声に、慌てて視線を戻し、クリスケは頷いた。
 カーレッジから教えられた魔法陣の数は、それほど多くはない。地図に記された○印は、バツ印で消されたものを含め、10に届くか届かないかくらいなのだ。明日か、明後日には、多分、全ての魔方陣を確かめることが出来るだろう。…地上に通じているものがあるかは別にして。
 少しの間考えてから、クリスケは○の印を三つ、木炭で指し示した。
「ここと、ここと、…ここも。多分、この道を通っていけば城にも近づかなくて済むよ」
「そうだね。それじゃあ、今日確かめにいくのはそこで決まりだ」
 グリムがさっと地図を丸め、布袋の中に放り込んだ。ランタンに、ロープやナイフまで一緒くたに入っているそれを背負い、ノコを起こしてしまわないよう、忍び足で部屋を横切る。キノエが顔を上げ、微かに微笑んだ。
(いってきます)
(いってらっしゃい。気をつけて、夕飯までには帰ってきなさいよ)
 何も言わず、ただ手を振り合う。玄関の方へぱたぱたと賭けていくクリスケとグリムの背中を見送ってしまうと、キノエは何も無かったかのように、視線を落とした。廊下からは、他の兄弟達の足音や話し声が賑やかに聞こえてくるが、この部屋で聞こえる音はノコの寝息だけだ。昨日に比べて、随分落ち着いている。もう熱もほとんど下がったはずだ……。
「キノエさんー」
 ふいに、廊下の奥から呼び声が飛んできた。振り返ると、壁に半分隠れるようにして、サパタが顔を覗かせている。年上の兄弟達に止められたのを、こっそり抜け出してきたんだろう。消え入りそうな声で、サパタは呟いた。
「ノコ兄ちゃん、もうお熱下がった? …お部屋入っちゃだめ?」
「んー……そうねえ。ま、もういいかな。おいでサパタ。よく我慢したね」
 ぱっと顔を輝かせて、サパタが駆け寄ってきた。キノエの肩ごしに部屋の中を伺い、ほうっと息をつく。ノコがぐっすり眠っているのを見て、安心したらしい。けれど、次の瞬間にこくりと首をかしげた。
「ねえ、キノエさん」
「ん、なーに?」
「グリム兄ちゃんとクリスケ兄ちゃん、どこ行ったの?」
 虚をつかれた顔をして、キノエは瞬きをした。しばらく考えるように口元に手を当ててから、微笑む。
「復興のお手伝いに」





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 ——東外れの港。海に突き出た石桟橋。その向こう側。その先の……


 とんっ、と、危なっかしい瓦礫の階段を飛び降りる。すぐに続けて、グリムが隣の地面に降りてきた。地図を両手に持ったまま、難しい顔をしている。ランタンを高く掲げ、クリスケはグリムの手元を覗き込んだ。
「どう?」
「待って……。今、降りてきた階段が、多分この通りの残骸だと思うから…」
 地下に沈んだ衝撃で、アリウスの外れへ行けば行くほど、道は崩れ、塞がれ、捻じ曲がり、地図に書かれた姿とは全く違うものになっていた。指先であちこちの道を辿っては、グリムが低く唸る。グリムの気を散らせない為にも口をつぐんで、クリスケは辺りを見回した。アリウスの中心部なら、一日のうちの何時間かだけだが、外灯代わりの魔法灯が燈る。けれど、ここまで外れに来てしまえば、それもない。ランタンの灯だけが頼りの、真っ暗闇だ。
「……?」
 真っ暗闇、のはずだ。
 それなのに、ふいに、微かな光の煌きが視界の端に閃いた気がして、クリスケは眉を潜めた。グリムに断ってから、ランタンの灯をぎりぎりまで小さくする。さらに手の平で覆いを被せて、光が見えた方向をじっと見つめる。
「…何かあった?」
「光が、見えた気がしたんだけど。……何にも見えないや。ごめん、オイラの気のせいだったみたい」
 狭い光の輪の外に広がるのは、真っ暗闇だけ。何度か呼吸を数えた後、クリスケは残念そうにランタンの灯を元に戻した。とたん、グリムが「あっ」と声を上げ、クリスケの腕を掴んだ。
「クリスケ、ランタンをそのまま…ううん、持ち上げて! もっと高く……!」
 闇の一点に光が灯るのを、二人は確かに見た。そろそろと、そちらに近づく。光が小刻みに揺れる。それは、まるで、
「……水面?」
 やがて、ランタンの灯に浮かび上がったのは、すとんと落ち込んだ石畳の岸辺を弱々しく洗う水の姿だった。こんなところに水が満ちているなんて信じられなくて、跪き、クリスケは指先を水面に浸そうとした。そのぎりぎりのタイミングで、
「待って」
 クリスケを、グリムが鋭く制した。
「……っ? グリム、オイラ別に泳ごうなんて思ってないよ?」
「そんな顔しないでよ。分かってる。…でも、確かめるのが先だ」
 足元に落ちていた小石を拾い上げ、ヒュッと投げる。遠くで小さい着水音。そして次の瞬間、盛大な水飛沫を跳ね上げ、人の腕くらい簡単に食いちぎれそうな程に、巨大な魚が空中へ躍りあがった。ランタンの灯に、鋭い牙が光る。ガチガチと物騒な音を残して、腹立たしげに魚は水面に落ちると、姿を消した。
「やっぱりいた。……あれ、ここの水、しょっぱいや。海水が入ってきてたのか」
 呆然とするクリスケの隣で、グリムが感慨深く頷いた。二人ともずぶ濡れだ。ランタンがジジッと鳴って、文句を言うように、中の灯が危なっかしく揺らめく。
「…グ、グリム? なに、今の、…魚?」
「ああ、ええとね。前に、大人たちが地下水脈を遡って地上に出ようとしたことがあるんだ。……そしたらアイツが——女王がそれはもう怒っちゃって、水路という水路にあの腹ペコ魚を」
 しばらく口をぱくぱくさせてから、クリスケはやっと呟いた。
「落ちたら、し、死ぬよね」
「まあ、良くても、腕か足くらいは無くなるんじゃないかな。……あ、大丈夫。最初のうちは、女王もしつこく手を出してきたけど。もう絶対に逃げられないって確信したのかな、多分。最近じゃ僕らが何してても、女王の手下すら近づいてこないよ」
 クリスケの顔色を見て、女王に怯えていると思ったのか、グリムが言い添える。眩暈すら感じて、クリスケは頭を振った。
「みんな、どれだけ必死に……」
 気を取り直すように顔を擦ってから、改めて、ランタンを持ち上げる。光が反射する。どうやら、この先はすっかり水に飲み込まれているらしく、左右に続く石畳の岸沿いに歩いていくしかなさそうだった。
「今、オイラ達がいるの、どの辺になるのかな」
「地形から言っても、もう港には入ってるはず。多分、地図で言ったら、この辺り…だと思うけど。せめてもう少し、何か、目印がないと……」
 頷く代わりに辺りを見回して、クリスケは溜息をついた。ランタンが浮かび上がらせるのは、崩れた石畳の他には、ロープの切れ端やら、木片やら、がらくたばかり。現在地を特定出来そうなものは何もない。
「オイラ、そもそもこっちの方あんまり来たことなかったしなぁ……グリムは?」
「こんな外れの港まで来る用事なんて無いよ。2、3回通りかかったくらいかな……。石の桟橋があったのは微かに覚えてるけど。でも、そもそも、今回の抜け道って…」
 グリムが言いよどむ。
「"東外れの港。石桟橋。その向こう側。その先の……渡りきった先の、石の小島”」
「そう、それ。ただ、石の小島、なんて、覚えてないんだよ……」
「うーん…。オイラも自信ないけど…でも、一応は確かめてみるしかないよ。とにかく、まずは桟橋を見つけなきゃ」
 しばらく考えてから、クリスケは足元に転がっていた木片を拾い上げた。石畳に、トン、と先端を付けて、目を閉じて、手を離す。乾いた音と共に、木片が左手側に倒れる。グリムが、半分呆れたように笑った。
「見当も付かないなら、運試しもありか。じゃあ、まずはそっちから行ってみよう」
 目印代わりに、その木片を石畳の隙間に挿してから、二人は歩き出した。歩数を数えるのも忘れない。そうでもしないと、距離感覚が無くなって、間違いなく道に迷うからだ。(実際、昨日も道に迷いかけて、クリスケはアリウスの中で遭難するところだった。グリムがいなければ、この物語はそこで終わっていたかもいれない)

 足音だけが響く、静寂の真っ暗闇。自然と感覚が鋭くなる。遠くで、鐘が微かに時を告げている音を、鼓膜が拾う。
「前から気になってたんだけど」
 何の変化もない、黒い水面から目を離さずに、クリスケが呟く。
「あの鐘、誰が鳴らしてるの? 太陽が無いのに、よく時間が計れるなぁって思って」
「ああ、神官の人たちだよ。アリウスが沈んだ時に、神殿がめちゃくちゃになっちゃったから、一時的に時計台を神殿代わりにしてるんだ」
「し、神殿代わり? あれ、…って、時計台は崩れなかったの?」
「時計台は半壊。運良く鐘付き台が壊れなかったから、そっちは普通に使えるんだけど。ちなみに神殿は全壊。全く、柱の根元に細かい装飾ばっかり拘って施すから…」
 ぶつぶつと一人ごちてから、グリムは思い出したように付け足した。
「それから、時間はね、振り子と、海水を使った水時計でなんとか測れてるんだって。僕も、知り合いに一度見せてもらったけど、何人も係について時間を計ってたよ。時間だけは奪わせないって張り切ってたなあ……」
「あ、そっか…これで時間の感覚までなくなっちゃったら」
「そう、全部めちゃくちゃ。…正直、実際の時間とぴったり合ってるかどうかはそこまで気にしてないんだって。僕らが、ちゃんと、朝昼夕方夜を思い出して、睡眠とか生活が崩壊しなきゃそれで十分なんだってさ。何度か、女王が手下をけしかけてきたみたいだけど」
 グリムが片手をひらりと振った。指揮をするように持ち上げて、振り下ろす。クリスケも、その動きは何度も見たことがあった。アリウスが平和だった頃、街の至る所で……
「神官なんてみんな魔法使いだもの。それが集結してるんだから、一網打尽さ。女王本人が来ちゃったら多分、駄目だろうけど、アイツは城から出る気はないみたいだし。……あ」
 ほぼ同時に、二人の足が止まった。
 目の前には、石組みの壁。ランタンの光が届かないほど、高く広く広がっている。どう見ても行き止まりだった。
「…ちょっと運が悪かったね」
「ごめん……」
「逆方向に行けば良いだけだよ。…って、あ、しまった……クリスケ、今、何歩まで数えた?」
「ん、…1264、かな。グリムは?」
「いや、1000までは覚えてたんだけど……途中から忘れてた。喋りすぎだね、ごめん」
 互いに苦笑して、来た道を引き返す。今度は距離を測り間違えないようにと、二人とも口数が少なかった。水面、という壁にも似た目印があるおかげで、方向がずれる心配はあまりない。やがて、先ほど突き立てた木片が見えてきた。
 そのまま歩き続ける。
 二人が、また石の壁に行く手を阻まれたのは、それからすぐのことだった。桟橋なんて何処にもない。さらに二往復、石の壁と壁の間を、水面に目を凝らしながら歩く。……何も無い。
 ランタンの光が揺らめく。蝋燭の芯が、尽きかけていた。二人はのろのろと足を止めて、溜息をついた。
「……あとはまた、明日だね」
 グリムが石畳の上に地図を広げる。唇を噛んで、クリスケは布袋から木炭の欠片を取り出し、膝をついた。黙々と、書き刻む。
"×”
“桟橋、見つからなかった”
 胸に沸きかけた苦い感情は、そのまま飲み込んだ。







 帰り道。五分だけ寄り道したいから、少し遠回りしても良いか、と言い出したのはグリムの方だった。
「五分だけ? オイラは構わないけど……五分だけでいいの?」
 クリスケが微かに首を傾げる。抜け道探索の度に、グリムにつきあってもらって噴水広場に寄り道しているのは、クリスケの方だったからだ。しかも毎回15分近く。実際、少し気が咎め始めていた。
「オイラなんて毎回もっと寄り道してるんだし、グリムも遠慮しないでいいのに」
「いや、ね、最近ほったらかしてる知り合いがいて。心配してるかもしれないから、挨拶がしたいだけなんだ。さっき話した、時計台の神官の一人で…確かこの近くに住んでたはずなんだけど……」
 グリムが辺りを見渡す。ちょうど、町の外れと中心部の境目にあたるエリアだ。建物の半数があちこち崩れたり欠けたりしているものの、雨の心配がない地下ならぎりぎり住める。なになに通りの何軒目、とでも聞いているのだろう。通りの端から家の数を数えようとして——突然、グリムは笑いだした。
「分かりやすいなぁ。……あれだ」
 歩き出したグリムの背中越しに、その家を見て、クリスケはぽかんと口を開けてしまった。扉の両脇に、門番…ではなくて、優雅な石織りの衣装を纏った女神像が二体、どーんと鎮座している。かなりの面積が通りまではみ出しているのだが、…いいんだろうか、あれは。
「趣味が彫刻なんだって」
「…す、すごいね」
「転職した方が幸せなんじゃないかって感じだけどね……。でもまあ、いいひとだよ」
 扉の奥から聞こえてくる、ドッタンバッタン騒々しい音をBGMに言われても全く説得力がない。——と、ふいに、扉代わりに掛かっていたボロ布がぱっと跳ね上げられ、人が飛び出してきた。驚いて立ち止まった二人に気づいたとたん、その目がまんまるに見開かれる。
「あっれえ、グリム君!? 久しぶりじゃないか!最近見ないと思ったら! 何処で何してたんだい!?」
 素っ頓狂な声をあげて、パタパタとこちらへ駆けてきたのは、青年だった。無造作に束ねられた水色の長髪、その上には神官の位を示す背高帽子。服が簡素な分、金糸で白鳥の刺繍が施された海色の帽子がとても際立って見える。事情を察したらしいグリムが、やれやれと溜息をついた。
「ちょっと色々あって……というか、ルーシャンさん、なに、もしかして遅刻寸前?」
「ピンポン! ご名答! いやぁもうめちゃくちゃ急いでるんだけど、遅刻寸前というよりは遅刻確定って言った方がいいかな? さっきの鐘でもう交代してなきゃいけなかったんだよー……、っとと」
 我に返ったように、ルーシャンがクリスケに視線を向けて、ふにゃっと笑った。
「初めまして、クリスケ君。挨拶が遅れてごめんよ」
「え、あ。はじめまして。えっと…」
「あ、ごめんね。僕はルーシャン・ロワン。ルーシャンでいいよー。グリム君とはちょっと前から仲良しでね。君のことも色々聞いてたんだ」
 あ、それでか、とクリスケは少し緊張を解いた。知らない人の口からいきなり自分の名前が出ると、やっぱり多少びっくりする。グリムが後を引き継いで、
「アリウスの復興作業を手伝ってる時、知り合いになったんだ。僕らの家をいくらかマシに修理してくれたのも、ルーシャンさんだよ」
「いくらかなんてひどいなぁ。まあ、その時にグリム君とかノコ君とか、スカイブルーの皆から君の話をこれでもかってくらい聞いてね。左頬にかっくいい傷跡がある、クリボーの男の子って。すぐに分かったよ」
 笑いながら、ルーシャンは左頬をつついてみせる。つられて、クリスケの手も自分の左頬に触れた。
 指先に伝わるのは、一直線に結ばれた、大きな傷跡の感触。何のかのと言われるのは慣れていたが、褒められるのは珍しい。ちょっとまごつきながらお礼を言うと、ルーシャンはますます笑みを深くした。
「せっかくだし、全快記念に時計台でも見学していく? 僕が案内す…って、あ、」
 ビシリ、と、効果音つきで、その笑顔が硬直する。
「あぁあああっ遅刻してた——!! ごめんクリスケ君!また今度! ひどいじゃないか、なんで何も言ってくれないんだグリム君は! ルーシャンさん何か忘れてない?ってツッコんでくれよー!」
「そんなこと言われても」
「だよね!! ごめん! じゃあまたね!」
 半泣きで走り出したルーシャンの背中に、ふと思い出したように、グリムは声を掛けた。
「ねえ、東の港って、桟橋壊れちゃったの?」
「港の桟橋? ちゃんとあるけど、今は呼び出さなきゃ無いよ!」
「え?」
「え、…え!? ルーシャンさん、ちょっと待っ…!」
 クリスケの声が届くよりも早く、ルーシャンは角を曲がって消えてしまっていた。
 しばらくぽかんと立ち尽くしてから、ようやっとグリムが呟く。
「昔からこの辺りに住んでたっていうから、もしかしたら何か知ってるかも、とは思ったけど」
 唾を飲み込む。
「……追いかける?」
 答えるまでもなかった。
 頷いて、石畳を強く蹴ると、クリスケとグリムは曲がりくねった路地を走り出した。




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