もう何度目になるか分からない。乗せても乗せても、すぐに水気を失ってしまうタオルを桶に放り込み、クリスケはこめかみを滑り落ちる汗をぬぐった。水が滴らない程度に絞って、すぐに立ち上がる。少し前まで聞こえていた呻き声が、荒い寝息に変わっていた。真っ赤に上気したノコの額に、そっとタオルを乗せ、息をつく。
 こん、こん、と壁を叩く音に振り返ると、グリムが開きっぱなしの扉から顔を覗かせていた。
「……寝た?」
「うん、さっき……香草のお茶が効いたみたい」
「熱冷ましがあれば良かったんだけど、もう切れてて。今、キノエさんが病院にベッドの空きがあるか聞きに行ってる。チビたちには移ったら良くないから絶対部屋入るなって言っといたよ」
 クリスケの隣に腰を下ろしながら、グリムは表情を曇らせてノコを見やった。ノコの首筋に手をあてて、眉を潜める。
「……高すぎる」
 独り言のように呟いてから、グリムはちらりとクリスケを見た。
「念の為、言っておくけれど」
 無言のまま、視線も動かさないクリスケの腕を、ぺんと叩く。
「君に言ってるんだよ、クリスケ」
「え? え、あ、なに?」
「…鏡を見てきた方が良いと思うな」
 クリスケが虚を付かれた顔で目を瞬くと、良いからさっさと見て来い、とグリムは部屋の片隅を指差した。備え付けられた洗面台——もちろん壊れていて水は出ない——の上には、半分に割れた鏡が掛かっている。首を捻りながら、鏡の方へ歩いていくクリスケの背中に、グリムはぼそりと言った。
「酷い顔だよ」
 鏡に映ったのは、顔色を失い、ぼんやりとこちらを見返す自分の顔。クリスケは思わず「うわぁ」と呟いて軽く顔を摩った。瞼が重いと思っていたのも当然だ。疲労と寝不足ですっかり腫れあがっている。
「……また何か、余計なこと考えてたんじゃないの。例えば、ノコが熱を出したのは、地上に出たせいじゃないかとか、イコール自分のせいじゃないかとか。たかが数時間で何かが発症するんだったら、僕もクリスケも倒れてなきゃおかしいでしょ。疲れが出たんだよ、きっと。………ここ一ヶ月、ノコはずっと無理して動き回ってたから」
 ふいにグリムの声が低く掠れた。
「僕らはもう、ほとんど諦めてた。ノコだけなんだよ、本気で地上に出る道がどこかにあるって信じてたのは。それなのに………。倒れない方が、倒れない方がおかしいんだ。でも、僕は自分のことで精一杯で、気づかなかった。一ヶ月、ずっと一緒にいたのに」
 もうなんでもいい、とノコが言葉にした瞬間、グリムは——少なくとも、クリスケが目を覚ましてから——初めて声を荒げた。
 ノコの枕の傍で、グリムは謝るように深く項垂れている。ちくり、と胸を刺した感情に気が付かないふりをして、クリスケは呟いた。
「じゃあ、もしも、まだ荒野になっていない地上を見つけられたら?」
 振り返ったグリムの、自分以上に力を無くした瞳を見据え、クリスケは唇を噛んだ。
「ずっと、考えてたんだ。カーレッジがオイラに教えてくれた抜け道は、まだたくさんある。もしかしたら、何もなくなってしまったのは、アリウスの周りだけかもしれない。女王の力がどれくらい凄いのか、オイラは知らないけど……アリウスから遠く離れた場所なら、もしかしたら、あの暗闇も届いてないかもしれない。まだ何も変わってないかもしれない。オイラ達はまだ何も確かめてない!」
 初めおずおずと切り出された言葉は、言葉自身に背を押され、次第に力強く響き始めた。
 グリムの瞳が、微かに見開かれる。少しずつ、その瞳に、光が戻り始める。
 —— 一ヶ月間を眠りの中で過ごしたクリスケは、女王が地下に沈んだアリウスの民に見せ付けた力を見なかった。百人以上を城の中に、影の中に飲み込み、一切の反抗を寄せ付けなかった女王が人々に植えつけたのは、恐怖以上に、諦めだった。代わりに奪ったのは想像力。女王に勝てるかもしれないとか、地上なら逃げ延びられるかもしれないとか、まだ女王の力が及んでいない場所があるはずだとか、そんな想像すら出来ないように、逃げようとすら思えないように。じわりじわりと、緩慢に人々を皆殺しにするつもりで——
「…そしたら、ノコもあっという間に熱なんかひいちゃうんじゃないかな」
 ふっと語調を変えてクリスケが付け加えた言葉に、グリムは我に返って、目を瞬いた。そして、金縛りが解かれたように、笑い出した。
「さすが…ああ、もう、凄いなクリスケは。本当に何も変わってないんだから。……じゃあ、いいよ、確かめてみたとして、もしも、アリウスから行ける地上の全てが、荒廃していたら?」
「その時は諦め…ううん。そこから今度は歩いて、地上の何処かに、まだオイラ達が暮らせる場所が無いか探すよ」
「そこにも、女王はいつかやってくるかもしれないのに?」
「それでも、少しは長く、皆と一緒にいられるよ」
「どうだろうね。…一ヶ月くらいかな?」
 会話自体は、とてもとても重い内容のはずなのに、二人は笑った。少しだけ哀しみを帯びていても、どこまでも明るい声で。
 ……だから、キノエが戸口から顔を覗かせ、呆気にとられて立ち尽くしているのに、二人が全く気づかなかったのも、無理は無いのだ。
「—— 何の話?」
 効果音をつけるなら、びしり、とかそんなところだろうか。反射的に動きを止め、それからそろそろと振り返ったクリスケは、すっかり青ざめたキノエが、仁王立ちで自分達を見下ろしているのと目があった。
「…もう一度、聞くわ。クリスケ。……何の話? 抜け道って、何のことを言っているの?」
 高い声で叫びたいのを、必死に押さえ込んでいるような、そんな声だった。組んだ腕が震えている。何も答えないクリスケに焦れたのか、キノエはもう一度口を開きかけて、深く嘆息した。
「…ごめんなさい。これじゃ答えられるものも答えられないわね」
 深呼吸を何度も繰り返してから、キノエは二人の傍に腰を降ろした。怒らないから、と両手を広げてみせる。クリスケとグリムが、うろたえて互いに視線を交し合う間、キノエは黙って待っていた。伊達に何人もの年の離れた兄弟達の姉代わりをしてきた訳じゃない。何かを白状してもらう時のやり方は、身体に経験で染み付いている。クリスケとグリムのような、割と大人しい、というか反抗的じゃないタイプが相手の場合——決して威圧感を出さないこと。辛抱強く待つことだ。
 一方、クリスケの心の中は「どうしよう」の大嵐だった。ノコとグリムに打ち明けるだけでもものすごく大変だったのに、大人に、キノエに聞かれた。誤魔化そうかと一瞬思ったが、キノエははっきり「抜け道」と言った。いつから聞かれていたのか分からないが、嘘を突き通せる自信は全く無かった。それこそ間違いなく拳骨が飛んでくる。
 どちらにしろ、抜け道から皆で逃げようと思うなら、いつかは打ち明けなければいけないことだ。でも、こんな急なんて、心の準備も何もあったものじゃない!
 ちらり、と横目でクリスケを見て、グリムは大体を悟ったらしい。クリスケよりも先にキノエを見据えると、口を開いた。
「……もしも、の話で遊んでただけなんだ。驚かせて、ごめんなさ…」
「"カーレッジがオイラに教えてくれた抜け道はまだたくさんある"」
 グリムの声を、キノエは淡々と遮った。そっくり繰り返された自分の言葉に、今度こそクリスケは動けなくなる。クリスケをじっと見つめ、キノエは静かに言った。
「これも遊び?」
 それ以上は何も言わない。キノエは急かさなかった。無言で、ひたすらに、視線を向け続ける。どんどん重みを増して圧し掛かってくる沈黙に、クリスケは冷や汗が流れるのを感じた。唾を飲み込む音すら聞こえるような気がする。…何というか、今日一日だけで何度このプレッシャーを味わえば良いのだろう。ごめんなさい、と掠れ声で呟くのが精一杯だった。
「………」
 これにも答えずに、キノエはため息をついた。そして、ひょいと立ち上がり、戸口から出て行く。逃げないでよ、と付け加えて。…経験的に、ここで逃げたら、後で拳骨が二倍くらいになるのは分かっているので、クリスケとグリムは青ざめながら、そこに座っていた。
「……もう、話した方が良いんじゃない?」
「ど、どうやって」
「僕たちに話したみたいに。……いや、ううん、とにかく、抜け道を教えてもらったってことだけでも。カーレッジさんのことを説明しようとしたら、キノエさん相手じゃ、一時間掛かるよ」
 ひそひそ声で相談を交わしながら、二人は思わずにはいられなかった。……ノコも起きてれば良かったのに。
 やがて、カタカタと音をさせながら、キノエが戻ってきた。木製のカップを、三つお盆に乗せている。
「さっきは、睨みつけて悪かったわ」
 床にぺたんと腰を降ろすと、キノエは湯気が立つカップを二人に手渡した。本当に微かに、柔らかい草の匂いがする。少ない茶葉で、ぎりぎりまで薄めたお茶を作ってきたらしい。二人より先に一口啜り、「ほとんど白湯じゃないの」とかなんとか、感想を呟いたりしている。
「……あの、キノエさん」
「んー?」
「…お、怒らない?」
「まあ、とりあえず、話を聞き終わるまではね?」
 笑みを浮かべてから、ふっとキノエは真顔になった。
「びっくりしちゃったのよ。冗談にも聞こえなかったし…。本当なら、とんでもない吉報だわ。吉報すぎて信じられないくらいに」
 クリスケは顔を上げた。そして初めて、カップを持つキノエの手が、震えているのに気づく。
「教えてちょうだい、クリスケ。何がどうして何処でどうやってとか、今は聞かないわ。今はね。……さっきのは冗談? それとも、抜け道が、…このアリウスから地上に通じる道が、在るの?」
 どれくらいの間、沈黙が降りたか分からない。
 やがて、クリスケは、そろそろと頷いた。何も言わずに待っているキノエを見つめて、話し始める。
 "とある人"が教えてくれた抜け道。その数。その内の一本を確かめに行ったこと、その先の地上には何も無かったこと。まだ全てを確かめた訳じゃないけれど……

「…それで納得が行ったわ。まだ何も確かめてないって、そういうことだったのね」
 クリスケが口を閉ざし、しばらくたってから、キノエはやっとそれだけ呟いた。思い出したようにお茶を啜る。随分ぬるくなってしまっていた。
「ノコがこの部屋で寝てなかったら、外をフラフラ歩き回ってた罪と危険かもしれない場所に突っ込んでいった罪と相談しないつもりだった罪で拳骨を三発くらいあげたいところだけど。……そう。確実じゃないけど…在るかもしれないのね、地上へ脱出する道は」
「…うん。だから確かめたくて——」
 言いかけて、クリスケは慌てて言葉を飲み込んだ。言われた傍から、また外をフラフラして危険かもしれない場所へ行くつもりです、なんて宣言してどうするんだ。
 幸い、キノエには聞こえていなかったらしい。カップの水面を見つめ、考え込むように俯いている。小さな声が聞こえた。
「良かった」
「…え」
「本当に、良かった…!!」
 高い音と共に、落ちたカップが石の床を転がっていく。
 声を殺して、キノエが泣き崩れるのを、クリスケとグリムは呆然と見守っていた。





>>