長い長い話だ。
 真っ暗な路地を、ランタンの灯りだけを頼りに早足で歩きながら、クリスケはこれまでのことを始まりから語っていった。城に近づかなくても済むルート、それでいて出来るだけ早く広場に辿り着けるルートを黙々と選び、(時々はグリムと道の相談を交わしながら、)ひたすらに、休みなく言葉を並べていく。
 夢のなかで、誰もいないアリウスをさ迷ったこと、噴水広場でカーレッジと出会い、帰り道を教えてもらって、目を覚ますことが出来たこと。
「最初は、ただの不思議な夢だと思ってたんだ」
 ぽつりと付け加えて、クリスケは軽く咳をした。唾を飲み込んで、もう一度口を開く。

 現実の噴水広場でカーレッジと再会したこと、そこで聞いてしまったこと。それからのこと。

 息を呑んでは、ノコかグリムが何か聞き返す度に、同じところをもう一度繰り返す。カーレッジが王であったこと、人々の記憶から消えてしまったこと、女王は何故この世界にやってきたのか。夢のような話を、何度も何度も繰り返して語った。別れ際に、カーレッジが自分に告げた言葉も、なにもかも——


 ゴォーン、ゴォーン、と重い鐘の音がすぐ近くから聞こえてきた時、クリスケはびくりと肩を震わせ、立ち止まった。同じように足を止めたグリムが、つっと視線を上げる。
「五の刻だ」
「……急いだほうが良さそうだね」
 互いに頷きあい、三人は暗い路地をぱっと走り出した。ランタンのゆれる音、サンダルが石畳を蹴る音が、静まり返った街に反響していく。ここから先はほとんど平坦な一本道だ。道幅が広くなるにつれて、落ちている瓦礫の数も増えていく。
 やがて、噴水広場に繋がる大理石のアーチが、道の向こうに見え始めて——グリムがため息をついた。何本もの倒れた石の柱が、道を派手に塞いでいる。
「大丈夫。こっち」
 掠れた声で囁いて、クリスケは手招きした。倒れた石の柱と柱の間、なんとか潜り抜けられる隙間——柱のトンネルが、数時間前にクリスケが通った時のまま、ひっそりと口を開けていた。
 視界が開ける。
 ランタンの灯りに照らされ、橙色がかった噴水広場が、ぼうっと浮かび上がった。落ちている瓦礫も、静けさも、何も変わっていない。
「ここに、いたんだよな」
 後からトンネルを抜けてきたノコが、呟いた。
 頷き、肩で息をしながら、視線を巡らせて——噴水広場の中央、ランタンの灯が届くか届かないかの辺りに、崩れかけた噴水を見つけたとたん——クリスケは走り出した。もどかしげに、ペンダントを首から外す。もう、光はほとんど消えかけていた。
 後ろから、慌てたように二人の足音がついてくる。
 噴水の傍に跪き、クリスケは枯れた噴水の底をじっと見つめた。砂利と瓦礫に埋もれて、大理石の土台が微かに顔を覗かせている。……こんなところにペンダントを戻したとして、本当にカーレッジは帰って来るんだろうか?
(考えたって、分かりっこない)
 ペンダントを握り締め、一瞬だけ躊躇ってから、クリスケは片腕ごと噴水の中に突っ込んだ。

 半歩後ろから、クリスケが噴水の中に腕を入れるのをぼんやり見守っていたノコは、文字通り飛び上がる羽目になった。いきなり、クリスケが裏返った悲鳴をあげたのだ。
「なっ…おい、大丈夫か!?」
 瓦礫で血管でも切ったのか、と慌ててクリスケの腕を掴もうとして、ノコは息を呑んだ。火傷をした時のようにクリスケが腕を引っ込めた瞬間、聞こえたのは、明らかに水の跳ねる音だった。クリスケも、信じられないという顔をして、噴水の底を凝視している。
「……水がある」
 何も見えないけど、と付け足して、クリスケは自分の腕をさすった。何も濡れていない。水滴一粒の名残もない。けれど、噴水の中に腕を入れた瞬間、不意打ちで肌に伝わってきたのは、どう考えても冷たい水の感触だった。
「これも魔法……なのかな。さっき、言ってたでしょう? あの抜け道も、僕らが見つける前は、石組みの中に隠されてたんだって……」
「うん…多分」
 半分首を傾げながら頷いて、もしも何もかも元に戻って落ち着くことが出来たら、魔法についてもっとちゃんと勉強しよう、とクリスケは心の中で呟いた。魔法なんて、魔法使いが使うもので、自分たちには全然関係がないと思っていたけれど、知らないだけでこんなにも何も分からないのだから。
 ひとつ深呼吸をする。ペンダントを両手で包むようにして、今度はゆっくりと、クリスケは噴水の中に腕を差し入れた。肘まですっかり水の感触に浸し、じっと目を凝らす。
 手のひらの中で、ペンダントが微かに揺らめいたような気がした。瞬きすら惜しくて、息を止める。二人が、自分と同じように息を殺して、ペンダントを見つめている気配が、背中に伝わってきた。今なら、何メートルも離れたところをねずみが偲び足で通り過ぎたとしても、その足音を聞くことが出来るかもしれない。
(——早く、)
 指先から痺れが上がってくる。ぎゅっと目を閉じて、クリスケは耳を澄ませた。
 噴水に沈めておいてくれ、とカーレッジは言った。多分、もうこの手を離しても、大丈夫なんだろう。ペンダントだけ噴水の底に置いて——そう思っても、クリスケは、手のひらをほどくことが出来なかった。
(まだ、聞きたいことが……)



 それから三十分、その姿勢のまま、クリスケは動かなかった。
 後ろに立っていた二人が、少しずつそわそわと視線を動かし始めて、立ったり座ったりを繰り返しても、ぴくりともしない。痺れを切らしたノコが口を開きかけ、グリムに制された。眼力で文句を訴えてきたノコを見つめ、グリムは囁いた。
「……ちょっと来て」
 ノコを連れて、静かにクリスケの傍から離れると、グリムは低い声で言った。
「多分、あと何分かで六の刻になる」
「…間に合うのか」
「六の刻が鳴ってからすぐ帰れば、もしかしたら。でも、ギリギリだと思う」
「動きそうにねえぞ、あいつ」
「そこは大丈夫じゃないかな。クリスケも分かってると思うから。ただ……」
「ただ?」
「カーレッジ…さん、でいいのかな、クリスケの言ってたことを疑う訳じゃないよ、絶対クリスケにそう言ったんだと思う……でも、多分、噴水に帰ってくるっていうのは……」
 ふっと言いやめて、グリムはクリスケの後姿を見やった。
「ノコも見たでしょう、あの銀色の光。地上に出た時に…あの光のこと、クリスケは『カーレッジだ』って言ってた。クリスケの言った事がほんとなら、女王の力を止める為にクリスケを置いて地上に行って…多分、その人は何か大きな魔法を使ったんだ。女王と互角にやりあえる魔法だよ? …そんな魔法、生きていても使える人なんてほとんどいない。それを、死んだ存在が使うなんて、」
「クリスケも分かってるだろ、それくらい」
 少しずつ大きくなるグリムの声を慌てて押しとどめて、ノコは囁いた。我に返ったように目を瞬き、グリムは肩を落とした。
「…そう、そうだね。もちろんそうに決まってる。僕が言いたかったのは……それでも、クリスケが待ってるってことなんだ。もう30分以上、あの体勢でだよ。多分…クリスケは、諦めてないんだ。彼なら、まだ何か、僕らが生きられる道か手段を、知ってるかもしれないって」
 無理もないよ、と独り言のように呟いて、グリムは初めてノコが黙ったままなのに気づいた。視線を移すと、複雑な色を目に宿したノコと、目があった。
「……お前は?」
「え?」
「お前だって、諦めてないんじゃないのか」
 グリムは視線を逸らして、苦笑した。
「…そのひとが戻ってこなかったら、戻ってこないって悟ったら、クリスケの心が折れちゃうんじゃないかって、僕はそれが心配なんだ。地上はあの有様だし、アリウスは今のとこ安全だけど、いつまで持ちこたえるか分からない。僕らはまだ、一ヶ月ここにいたんだから、耐性がついてる。でもクリスケは——」
 前触れもなく、鐘の音が静寂を切り裂いた。
 ハッと身体を硬くして、ノコとグリムは時計台の方角を振り仰いだ。……時間切れだ。クリスケは、とノコが振り返って見ると、相変わらず噴水の傍に跪いたままだ。ただ、さっきよりも頭が下がって、俯いている。
(……寝てるんじゃないよな、いやまさかそれはないか)
 クリスケの傍に早足で向かいながら、そんなことを考えていたノコは、途中でぴたりと足を止めた。少し迷ってから、口を開く。
「クリスケ、大丈夫か」
「………うん」
 次に言うことが何も見つからなくて、ノコは自分の語彙力に心の中で舌打ちした。遅れて追いついたグリムが、随分長い間クリスケの背中を見つめてから、静かに言った。
「帰ろうか」
 頷いて、クリスケはそろそろと立ち上がった。腰を屈めたままだ。噴水の中に入れたままの腕を、躊躇ってから、のろのろと引き上げる。ちらりと空っぽの手のひらが見えて、ノコは目を伏せた。
 手の甲と、腕も使って乱暴に顔を擦ってから、クリスケはやっと振り返った。
「ごめん、いっぱい待たせて……。ありがとう。もう、いいよ」
「そんなに待ってないよ。今からなら、まだバレずに帰れるし。ね、ノコ?」
「お、おう……うん、そうだな。全っ然余裕だって」
 若干というか、かなり裏返り気味のノコの声に、クリスケはちょっとだけ笑って、目を瞬いた。
「ほんとに大丈夫だってば。二人とも、オイラに隠れて喋ってたつもりだろうけど、結構聞こえたよ?」
「え"」
 濁音付の何かよく分からない声を出して、ノコが固まった。グリムまで目を見開いて、何かぼそぼそ謝っているのを見て、今度こそクリスケは笑い出してしまった。
「てめええ、人が心配してるってのに笑うことねえだろ!」
「ごっ、ごめん、痛い痛い!痛いからやめて! だって……」
 両サイドからこめかみを拳骨でぐりぐりやられてはたまったものじゃない。ノコの手をべしべしと抗議するように叩きながら、クリスケは言葉を継ぎかけて——ふっと口を閉ざした。不思議そうな表情を浮かべたノコの腕から抜け出し、振り返る。しばらく噴水を見つめてから、クリスケは首を振り、苦笑した。
「やっぱり、なんでもない」
 なんでもないじゃないだろうが、と応戦を始めようとしたノコを、グリムがぺしんと叩いた。
「時間」
「あ!?」
「いや、ほら、二人が元気になったのは僕も嬉しいけど、時間、間に合わないよ?」
「あっ」





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 互いに競うような全力疾走で路地を駆け抜けながら、クリスケは胸元を押さえた。そこにペンダントがあったのはたったの数時間だけなのに、今では無いことが刺すように寂しい。それでも、
 何も変化のないペンダントの上に、見えない水面にぼとぼと涙を落としながら、クリスケは心の中で何度も何度もカーレッジを呼び、これからどうすればいいのかと問いかけた。誰も答えない問いを繰り返し、繰り返し、やがて答えたのは、自分の声だった。

 まだ、出来ることがある。
 地上の全てが荒野になってしまったと、誰が言ったんだ?

 思いついてしまえば、何故頭から抜けていたのかと不思議になるくらいだ。まだ確かめていない抜け道が残っている。何本も。荒れ果てた地上を見た時から麻痺していた頭が、やっと自由を取り戻したかのようだった。
 絶望に押し潰されるのは、まだ早い。
 今は時間がない。家に帰って少し落ち着いてから、この思いつきを二人に話そう。もう、一人で頭を捻らなくてもいい。三人で力を合わせれば、きっと、まだ人のいる地上に繋がる抜け道が見つかる。
 ——カーレッジだって、もしかしたら、帰るのが遅れているだけかもしれないのだ。

 疲れてはいても、足はもう重くなかった。
 兄弟達が起き出す10分かそこら前に、なんとか三人は家に辿り着き、自分のベッドに滑り込んだ。徹夜してしまったせいで全員揃って目の下に隈があったが、誰も気がつかなかった。ただ、朝ご飯の席でクリスケとノコがが揃って大欠伸をしているのを見て、キノエが呆れたように眉をあげただけだ。










 その日の午後、ノコが倒れた。





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