ランタンの投げかける光と影が、石組みの壁に幾様にも反射して、ちらちらと揺れる。サンダルの足音と、互いの息遣いだけが、狭い地下道で篭ったように響く。
 あんな、命の気配もない荒野に足を踏み入れる気にはとてもなれなくて、引き返し、魔法陣を抜け、そろそろ出口に近いところまで歩いてきても——三人は、ずっと口を噤んだままだった。

 俯いて、足を引きずるように歩きながら、クリスケはずっと胸元のペンダントを握り締めていた。
 この道を来る時は、ランタンの代わりにまでなってくれたペンダントの光が、ほとんど薄れ、今にも消えてしまいそうに弱々しく瞬いている。別れ際のカーレッジの言葉、洞窟の先で見てしまった荒野、一瞬弾けて消えた蒼銀色の光。あの光の矢は、
「——っ」
 途切れた足音に気づいたのだろう。グリムが振り返り、首を微かに傾げた。
「……大丈夫?」
「…うん、」
「階段、見えたぞ」
 ノコの掠れた声に顔をあげると、ランタンに照らされた闇の中に、階段がぼんやりと浮かび上がっていた。地下に閉ざされたアリウスへ続く道を、じっと見つめる。真っ暗なその世界は、今、地上よりもよっぽど多くの命がある世界なのだ。たとえ、いつまで持ちこたえられるか分からなくても——
(どう、したら)
 心を塗りつぶそうとする絶望を押し払い、クリスケは、ぐっと唇を噛んだ。

(——カーレッジに会わなくちゃ)

(もう一度、絶対に……!)
 
 無事なのか、今どこにいるのか、胸の中で渦巻くそんな不安をも、飲み下す。
 噴水に沈めておいてくれれば、そこに帰ると——言葉と共にカーレッジが指さしていたガラスの星が、手のひらに食い込んでいた。まだ聞いていないことが山のようにある。もしかしたら、その聞いていないことの中に、希望は残っているかもしれない。

 家に帰る前に、噴水に行かなければ、と思った。——でも、どうやって?

 階段を登り始めた二人の背中を、クリスケはそっと見上げた。ここまで自分を追いかけてくれた二人。一人で行くなんてもう絶対に駄目だろう。……けれど、噴水に行きたいと言ったところで、その理由を問われたら全く説明出来る気がしなかった。
 正直に言えば良いじゃないか、そんな声がちらりと胸を掠める。階段を登りながら、クリスケはそんな自分の声にため息をついた。まだ夢を見ているのか、と二人が困ったように表情を曇らせるのがありありと想像出来る。自分にしか見えないうえに、人々の記憶から消えた王様なんて誰が信じられる?

 良い考えが浮かぶ間も無く、急な階段はあっという間に途切れ、さっと視界が開けた。
 暗闇に覆われていても、見慣れた石組みの路地や家並みが広がっているのを見て、三人は思わず長い息をもらした。——気が張り詰めていて、ほとんどまともに息が出来ていなかったのだ。
「…さてと」
 声を取り戻すように咳払いして、ノコが苦く笑った。
「早く帰ろうぜ。多分、まだキノエ達が起きだすには時間があると思うけどさ。抜けだしてたのバレたら、俺ら、引っぱたかれるだけじゃ済まねえぞ」
「……朝まではまだ一刻くらいはあると思うけどね」
「それでもだよ。疲れたし」
 首をごきごきと鳴らし、さっさと歩き始めたノコに、クリスケは慌てた。今、言い損ねたら、もう切り出せるタイミングは無い気がして、どう切り出せばいいか分からないまま、とっさに手を伸ばしていた。
 びんっ、と良い音がして、つんのめりかけたノコが振り返る。
「……なんだよ?」
 ノコの肘に巻かれた布切れの先を掴み、口を開きかけたまま、クリスケは動けなくなってしまった。
 ランタンがかしゃりと鳴り、光が揺れる。ノコの、泣き腫らした琥珀色の目は、光を反射してはいても、何も見ていなかった。とても遠い目だった。今、ノコと離れてしまったら駄目だ、と直感が告げる。何でもいい、とにかく何か言わないと、と焦りに背を押されて、クリスケは口を開いた。
「帰る前に、どうしても行きたいとこが……あるんだ、けど、」
 言葉と共に、ノコが訝しげに眉間に皺を寄せていく。ああ、うわあ、やっぱり、と内心で冷や汗をだらだら流しながら、クリスケは無茶苦茶に言葉を継いだ。
「一人で行くのは危ないって、もう、分かったし、だから、その…ちょっと遠いんだけど、多分、そんなに時間はかかんないと思うし……」
 ついてきてくれないか、の一言が重くて重くて、クリスケが悪戦苦闘していると、ノコがふっと笑った。
「……ふーん。ちょっとは追いかけたかいがあったかな」
 巻布を掴んだままのクリスケの手をぺしぺしと叩き、我に返らせてから、ノコはくるりと踵を返した。
「じゃ、さっさと行こうぜ。グリムもいいだろ?」
「……僕? そりゃ僕は構わないけど」
 成り行きをいつもどおり見守っていたグリムが、目を瞬く。
「でも、クリスケ、行きたいところって何処のこと? ここからどれくらい?」
「え、あ、えーっと……噴水広場、に行きたいんだ。何年か前まで占いのお婆が近くに住んでた……」
 身構えていた分、肩透かしを食らったようになって、声が一瞬裏返ってしまった。ああ、あそこか、と一人で頷いているノコをまじまじと見つめてしまう。視線に気づいたノコが、ふっと苦笑した。
「なんだよその顔。…そんなボーゼンとしなくてもいいだろ」
「だって、さっきまで凄い質問攻めだったから……。なんで噴水広場なんか行くんだって絶対聞かれると思ったのに」
「………ああ、そういやそうだな」
 初めて気づいたような顔をして、ノコは頭を掻いた。ぽつりと呟く。
「まあ、俺はぶっちゃけ、もう、なんでもいいっつーか」
 一瞬、しん、と沈黙が降りた。
 ノコが見ていたものが、声になったことで、闇の中に実体を持ち始めていた。ひたひたと、打ち寄せる波のように、全てを覆い潰そうとしている。
 クリスケはとっさに——助けを求めるように——グリムを見やった。そして、ずっと静かだったグリムの、目が、強く光っているのを見た。
「…ああ、もう、僕は良くない、全然良くないよ」
 苛立ちを含んだため息で静寂を押しやり、グリムが大声をあげた。がっ、とノコの腕を掴み、鋭く叫ぶ。
「絶対に、もう、なんでもいいとか、どうでもいいとか、言葉にして、言うな!」
 路地に反響するその声の大きさに、クリスケは思わず身を竦ませた。グリム自身も驚いたように肩を震わせると、のろのろと手を離し、ごめん、と呟いた。呆然と立ち尽くすノコから視線を逸らしながら、小さな声で言う。
「そんな顔で帰ったら、キノエさんと、チビ達まで、何かあったって気づくよ。僕らが出歩いたことだけじゃない、僕らが、何か、絶望するくらい酷いものを見たってことも」
 ため息をつき、グリムはクリスケを見据えた。
「ごめんね、クリスケ、話の途中だったのに。……そう、ええと、噴水広場だよね。 なんで行くのかって、聞いても良い?」
 頷いて、それでもクリスケはすぐには口を開けなかった。
 その間を躊躇いと受け取ったのか、グリムが気遣うように首を傾げた。
「言いにくいなら、言わなくてもいいよ」
「あ、ううん、そうじゃなくて……ちょっと驚いただけだから」
 気を取り直すように頭を振り、クリスケはペンダントを首から外した。言葉なんて少しもまとまっていない。けれど、一度肩透かしを食らったおかげで、逆に気持ちが落ち着いていた。
 ペンダントを二人によく見えるようにしながら、クリスケはそろそろと呟いた。
「約束を……ええと、さっきの……あの抜け道のところで話したことの、続きになっちゃうんだけど」
 ふっと言葉を途絶り、一瞬迷ってから、グリム、と呼びかける。顔を上げたグリムに、クリスケは細い声で問いかけた。
「オイラがさっき言ったこと、やっぱり、夢だと思う?」
 グリムが、虚をつかれたように目を瞬いて、すぐに思い当たった顔になった。その表情が、微かに曇った。
「夢だと、思ってたよ。クリスケ、君は、一ヶ月も眠ってた。記憶が混乱してない方がおかしいって。でも、今は、自分でもどう考えていいか分からないんだ」
 続きを促しても、グリムはそれ以上何も言おうとしなかった。
 しばらくの沈黙の後、
「……俺さ」
 ふいに、ノコがぽつりと呟いた。まだ何処か上の空のような、ぼんやりした表情で、それでもとつとつと言葉を継いでいく。
「洞窟の中でお前が言ってたこと、ほとんど覚えてねえんだ。色々頭に来てたし。でも、あれだろ、さっきの話、って、お前に抜け道のことを教えたっていう奴の話だろ?」
 クリスケが頷くと、ノコは力なくため息をついた。遠い目のまま、無理やりに笑ってみせる。
「……夢な訳ねぇじゃんな。夢だって言うなら、俺らが見た地上だって全部夢だってことだ」
 あまりに、その笑い方が痛々しくて、クリスケは表情を歪めた。
 そんな顔すんな、と言う代わりに、クリスケの腕を叩きながら、ノコは言った。
「聞かせてくれよ、クリスケ。お前が知ってて、俺らが知らないこと、全部。今度はちゃんと聞くから。一人で秘密にしとくなんて、ずりぃぞ」
 クリスケがこくこくと頷くのを、ノコの表情を、グリムは黙ったままでじっと見つめていた。やがて、つと手を上げると、静かにノコの背に乗せた。





___________________________________




 暗くてもぬくもりのある、暖炉の火がつくるような暗闇がある。そんな、懐かしくてちょっと寂しい夢を見ていたのだ。そこは暖かくて、誰かが抱きしめてくれてさえいたような気がする。うつらうつらしながら、揺れていたから。誰だろう、と半分眠りながら考える。自分を抱きしめてくれる人なんていただろうか——
 突然、シャンデリアを叩き落としたような、凄まじい音が夢をつんざいた。
 まどろんでいたビビアンは、文字通り飛び上がって悲鳴を上げた。潜り込んでいた影の中から顔を出し、おろおろと辺りを見回す。廊下や、天井の高い広間や、そんなものの間で跳ね返って不気味に歪められた音が、あちらこちらから聞こえてく。物の割れる音、人の怒鳴るような声、他にも色々……
「な、なに……なにがあったの……?」
 この広い城の、隅っこの小さな部屋にまで届く騒ぎなんて、唯事ではない。そっと、部屋の扉に手をかけて、細く開けてみる。同時に、ビビアンは思い切り後ろに跳び退ることになった。
「……お、おおお姉さまっ!? どうしたの…!?」
「んあー…」
 ぐったりとした声に、ビビアンははっと我に返った。慌てて扉を開け放ち、マリリンの傍に駆け寄る。
「どうしたの、お姉さま、一体何が……」
「……んん…んあー」
「影の女王様が?」
 姉の言葉に、ビビアンは不安そうに廊下の向こうへ視線を上げた。今頃、女王様は、なにか良く分からないがあの星の鍵を使って、大切な儀式をしているのではなかったか。女王の元へ行った方がいいのか、それとも自分はここで姉の看病をしているべきなのか、ビビアンは途方に暮れてうろうろと視線を彷徨わせた。どうせ、自分なんかが言ったって、そこまで役に立てることはないだろうし、むしろオシオキされるかも……
「…んあーんあー」
「え……なに、お姉さま……」
 身を屈めて、マリリンの口元に耳を寄せたビビアンは、目を見開いた。
「じょ、女王様の儀式が、邪魔された!? そんなこと出来る人、いるわけが……!」
 無言のまま、マリリンが首を振る。
 天の星の力を宝石に込める儀式は、邪魔が入ったせいで中途半端になってしまったこと、何倍にも強まるはずだった力は結局少ししか強くならなかったこと、女王は今怒り狂っていて近づいたら何をされるかわからないこと……マジョリンが今必死で宥めていること……地上を覆っていた闇が、完全とはいかなくても、薄められてしまったこと……今の女王様でもこれ以上濃く出来ないこと……。淡々と告げられていく言葉に、ビビアンは青ざめ、震えだした。近くにいたからこそ、女王がどれほど強く恐ろしいか、ビビアンは知っていた。気まぐれに何もかも壊す女王が、怒りにかられたらどうなるか、ということも。
「…っ……!」
 ふいに、廊下の奥からぞっとするような高笑いが、幾重にも反響して襲いかかってきた。背中を、ぞっと寒気が駆け抜ける。思わず、マリリンを抱きしめてうずくまったビビアンに顔を上げさせたのは、聞きなれた影抜けの音だった。
「お姉さま!?」
「まったく、なにをボンヤリしてるんだろうね、アンタは!」
 もう一人の姉が、そこに立っていた。安堵で、思わず目を潤ませながら、ビビアンは声高く叫んだ。
「よ、良かった、アタイ、お姉さまが影の女王様に」
「それ以上言うんじゃないよ!」
 鋭い声に、びくっと身をすくませて、ビビアンは声を呑みこんだ。
 深くかぶった帽子の下から、マジョリンは二人の妹弟をじっと見つめていた。そして、しばらく何かを考えていたようだったが——やがて、ふん、と長い鷲鼻を鳴らすと、吐き捨てるように言った。
「アタシらに、影の女王様がお言いつけ下さったよ。確かに邪魔はされたけどね、スターストーンはちゃーんと出来てるんだ。それを、この世界のあちこちに置きにいくんだよ。女王様の力をもっと強くするんだ」
「え…あ……儀式、うまくいったの…?」
「ふん、途中であんな邪魔がはいんなきゃ、もっとスターストーンは強くなってたし、空からは星もなくなってたのさ。だのに……ああ、腹が立つ!」
 がしがしと髪を掻き毟る姉を見上げながら、ビビアンはほっと胸を撫で下ろした。もしも完全に儀式が失敗していたら、いくら姉でもどうなっていたことか分からない。
「お姉さ…」
「いつまでボケッとしてんだい! ほら、さっさと行くよ!」
「あ……」
 伸ばしかけた手は、見向きもされなかった。あっという間に、影の中へ消えてしまった姉のいた場所を見つめ、ビビアンは寂しそうに肩を落とした。
「はい……ごめんなさい、お姉さま」
 そして、マリリンと共に、影の中へ消えた。
 先ほどまでの騒音が嘘のように、死んだような静寂が、城に落ちた。




>>