「……夢か、これ」
 ぼそりと呟いたノコの声が、洞窟に反響する。
 完璧に、硬直して、動けなくなっていたクリスケは、ノコが自分の方へ歩いてくるのを見て、はっと我に返った。視線を落とす。その先は——
「ちょっ、と、待って、…この中に入ったら駄目だ!」
 反射的に手を伸ばし、クリスケはノコを突き飛ばしていた。クリスケの細腕でも、予想していなかったのだろう、ノコは数歩後ずさった。表情が、驚きから、少しずつ違うものに変わっていく。
 突き飛ばした拍子に、クリスケは魔法陣の外へ転がり出ていた。振り返り、自分もノコもあの場所に飛ばされていないことを確かめて、……安心するよりも早く、突然、がっと肩を掴まれ、クリスケは息をのんだ。力任せに振り向かされる。目の前に、琥珀色の目を細め、眉間に皺をよせたノコが、立っていた。
「……説明してもらいてぇことが山のようにあるな」
 感情を押し殺した、恐ろしく低い声が言う。
「なんでだ」
 目が合った一瞬で、自分が何をしたのか、ノコが何故ここにいるのか、クリスケは理解した。血が引いていく音がする。言葉をなくして立ちすくむクリスケに、ノコは言い募った。
「なんで、一人で街へ出た」
「…………」
「言えないなんて言わせねえぞ」
「………っ」
「言え!」
 叩きつけるような怒声に、思わず目を逸らしそうになって、クリスケは必死でノコを見返した。ノコの目が、魔法陣の光を反射して、本物の琥珀のように光っている。——泣いている。クリスケが目を見開くのと同時に、ノコは表情を歪めた。
「…っお前は何も知らないんだ! あのクソ女王がどんなことを平気でやるかってことも、お前が寝てた一か月の間、俺らがどんなに怯えてたかも!
 気がつかなかったのかよ、街を一人で出歩いてる奴なんか誰もいないってこと? 最初はな、最初はみんな、あいつが意味不明に強くてもそれでも一人の魔法使いだと思って、城の兵隊やら魔法使いやらが、みんな束になって城に入っていった! 誰も帰ってこなかった! 次に、一人で街に出た奴…城の近くに近づいた奴が、どんどん行方不明になった! グリムが…っ」
 ひゅっ、と息を吸って、ノコは咳きこんだ。
「グリムが……、見たんだよ、一人で歩いてた爺さんが、城の影に呑みこまれて消えちまうのを! 悲鳴あげながら帰ってきた! 少なくとも、城に近づかなければ…女王はまだ俺らに手を出してこない…でもなっ……今、この街で、一人になるってことは、……ものすごく、ものすごく危ないんだぞ!!」
 ノコの手が、クリスケの肩からずるりと落ちた。地面に膝をつき、肩で息をしながら声を絞りだす。
「お前まで、いなくなったら……また…、みんなが泣くんだ……」
 しばらくの間、波の音と、ノコが鼻をすする音以外、何も聞こえなくなった。
 言葉が頭の中でがんがんと反響して、考えることが出来ない。そのうち、身体の方が先に、言葉を理解して、クリスケは震えだした。
「…ごめ、……」
「ごめんなんて聞きたくねえんだよ、俺が聞きてぇのは……っ、なんで、お前は、わざわざ夜中に一人で家を抜け出した? 病み上がりのくせに、心配かけるとか思わなかったのかよ? 俺らが、お前にちゃんと説明出来なかったからか!?」
「ちがっ……ちがう、そうじゃない!」
「じゃあ、なんでだよ!!」
「それはっ……」
 助けを求めるように、クリスケは背後を振り返った。蒼い光を放つ魔法陣が、地上への出口が、そこに佇んでいる。
 一瞬、視線を彷徨わせてから、クリスケは深く息を吸い込んだ。
「……め…目が覚めてからも…全部夢みたいだった…アリウスが地下に沈んでるとか、あの時見た、影の女王、が、全部壊したとか…っ、一か月も眠ってたとか、信じられないのに……まだ半分くらい信じられないのに、でも、夢じゃないって、知っちゃったんだ…!」
 話し始めると、どっと言葉が溢れ出てきた。信じてもらえるかどうか、そんなことは頭から押し流されていた。胸の中に溜まっていた不安や疑問が、爆発する。手を固く握りしめ、クリスケは叫んだ。
「オイラ、寝てる間に……夢、見てたんだ。アリウス…誰もいなくて…真っ暗で……でも、その時、帰り道を教えてくれた人がいたんだ。そんなの夢だって……ただの夢だって思いたかったけど、でも…どうしてもひっかかって…確かめに行ったんだ。少しだけ……誰も居ないのを確かめに行くだけで帰るつもりだったけど…その人が」
 一瞬息を止めて、クリスケはノコを見た。琥珀色の目を見つめ、呟くように言う。
「本当にいた……。それで、教えてくれた…。みんな、今はまだ笑ってるけど、女王は、全部滅ぼしてしまうって…! その為に来たんだって……アリウスを守りたいから、力をかしてくれって…帰れるはずなかったよ、だって、帰っちゃったら、みんながどうなるのか…考えたくもなかった……!」
 振り絞った声が、洞窟に反響する。その静けさの木霊が消える頃、クリスケはのろのろと俯いて、口をつぐんだ。波の音と静寂とに押し潰されそうだった。

 ぱしゃん、と、ささやかな水音が、静寂に響く。

「……もういいでしょ、ノコ」
 その声音に驚いて、クリスケは顔を上げた。いつの間にそこにいたのか、岩の影から、ノコと同じくらい泥だらけになったグリムが、歩いて来る。無表情に、睨むように立ち尽くしていたノコの肩を、苦笑しながら、グリムはそっと叩いた。
「ノコだって、一人で飛び出していったんだ。僕が、気がついて追いかけなかったら、ノコだって相当危なかった。…クリスケ」
 一つ、溜息をついて、グリムは視線をクリスケへと向けた。申し訳なさそうに、クリスケの瞳から少しだけ視線を外しながら、とつとつと呟く。
「僕も、ノコも、クリスケがそんな嘘をつかないのは知ってるよ。…でもね、僕ら……ちょっと…この一か月、色々ありすぎたんだ。……信じたいけど」
 小さく首を振り、グリムは笑った。
「クリスケ、君もきっと、疲れてる。……早く帰ろう。今ならまだ、多分、キノエさんたちも起きてないと思うから」
 さあ、と手を差し出されて、クリスケは思わず一歩後ずさっていた。必死で、首を振る。
「違う…違うんだよ、グリム、信じられないと思うけど、でも……本当なんだ! ……ノコは、見たよね? オイラがここから出てくるの…!」
 後ろに佇んでいる魔法陣を指さしながら、クリスケは背筋が寒くなっていくような気がした。もしも、自分の言ったことが、全て夢だと思われてしまったら、カーレッジが言っていた、他の魔法陣はどうなるのだ。脱出する道があるのに、誰にもそれを信じてもらえないなんて、冗談じゃない。それに、今アリウスを守ろうとしている人がいるということさえ、信じてもらえないなんて…!
「…知ってるさ」
 ぼつん、とノコが呟いた。
「転送魔法……復興作業しながら、城にいた魔法使いたちが、何度もそんな魔法陣を描いて、瓦礫をどかしてた。さっき聞き忘れたから聞くけど、さ…お前、その“向こう”で何してたんだ。…何処行ってたんだよ」
「だから…」
 言いかけて、言葉が消える。カーレッジを、いや、自分にしか見えないらしい国王の魂を、女王からアリウスを守るために、地上まで連れていった、なんて、信じてもらえるはずがない。
 それでも、縋るように、クリスケは声を絞り出した。
「地上に……」
「…なんだって?」
「っ、だから、この魔法陣は、アリウスの外に繋がってるんだよ! その人が、連れてってほしいって…地上に行って、アリウスを女王から守るから、連れていってくれって、頼まれたんだ!」
 無表情だったノコの瞳に、一瞬、光がきらめいた。けれどそれはすぐに掻き消えて、眉を寄せた表情に変わる。まさか、とその口が動いた。
「…ノコ?」
「グリム、ちょっとどいてろ。クリスケも」
「なにを……」
「確かめる」
「な……っ!?」
「ちょっ…ちょっと待ってよ、ノコ!」
 ずかずかと魔法陣に突っ込もうとするノコを、クリスケは慌てて押しとどめた。別れ際にカーレッジが言っていた言葉を、早口でまくしたてる。
「今、地上は危ないって…アリウスには、もっと別の…アリウスの郊外じゃなくて、もっと離れた安全なところに繋がってる魔法陣がまだあるから、そっちを使えって、言われたんだよ! 今行ったりしたら……」
「危ない…? クリスケ、それ、お前自分の目で確かめたのか?」
「…っ、それは…」
 横目で睨まれて、クリスケは言葉に詰まった。その一瞬の隙に、ノコが魔法陣の縁を、踏み越えた。
 光の爆発に射られて、視界が真っ白に潰される。クリスケが何かを叫ぶよりも早く、ノコの姿は掻き消えていた。





「……なんで…」
 淡い光を放つだけになった魔法陣を見つめて、クリスケは呻いた。
 足音に振り替えると、悲しそうな表情のグリムと目があった。しばらく瞬きをしてから、しかたないんだ、というように、グリムは俯いた。
「グリム、なにがあったの……オイラ、あんな、ノコ、知らないよ……」
「……色々ありすぎたんだ。あの日から…クリスケが目を覚ますまで…。普段はいつもどおりなんだけど……時々、ああいう風になる」
 冷たい、刃物のような眼だった。生まれた時から、ほとんどずっと一緒に暮らしてきたのに、取っ組み合いの喧嘩になった時でさえ、クリスケはあんなノコの目を見たことがなかった。
「ねえ、クリスケ」
 グリムが、掠れた声で囁く。
「ノコが…急にああなったのはね……。クリスケも薄々分かってると思うけど、…僕らは今、閉じ込められている。出口がないんだ。空を飛べる種族は岩盤の隙間から外へ出ようとしたし、泳ぎの得意な種族は水脈を辿ろうとした……でも、駄目だった。食べ物か水が底をついたら、僕らは……」
 その先の言葉を、グリムは言わなかった。
 ただ、黙って、首を振った。
「何度も、出口が見つかりそうだとか、新しい水脈が出てきそうだとか、そういう噂がたった……。でも、全部、ただのデマだった。もう、お伽噺なんか、誰も信じない。でも、信じたくない、訳じゃ、ないんだよ」
「お伽噺なんかじゃ……」
「…ノコを追っかけなきゃね。多分ね、クリスケ、…君の話を一番信じたいのは、あいつのはずだよ」
 悲しそうな苦笑いだった。何も言えなくなって、クリスケは視線を落とした。その拍子に、微かな金具の音が鳴った。どきん、と一瞬心臓が跳ねる。星をかたどった硝子のペンダントが、確かに胸元に揺れていた。
 夢じゃないよ。
「……うん」
 頷いて、クリスケはグリムの手を取った。そして、魔法陣の中へ飛び込んだ。





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 遮るもの何一つない、のっぺりとした荒野が、視界を埋めつくすように延々と広がっている。容赦なく吹き付けてくる風を全身に受けながら、カーレッジは黙々と歩き続けていた。その後を追う足跡は、印されてから3歩も持たずに、さらさらと溶けて消える。仮初の身体が世界に与えられる影響など、実体化していたとしても、ほとんど無いのだ。
「……そろそろか」
 呟いて、カーレッジは空を見上げた。
 暗闇に閉ざされ、星の光だけが、僅かに抗うように震えている。星の光と、遠くの微かな山の影との角度を見比べると、カーレッジは立ち止まった。この岩盤の下に、彼女が魔法で沈めた、アリウスの街が閉じ込められている。そして、今、カーレッジがいる場所の真下には、黒く染められた城の尖塔が立っているはずだった。恐らく、影の女王もまた、そこにいる。それでも、今の自分なら、悟られることもないだろう。
(せめて、……星の光だけは)
 深く息を吸い込み、止める。腰に下げていた剣を、カーレッジはすらりと抜き放った。微かな銀の光が散り、風に吹き上げられる。光を追って、謳うように、とうとうと紡がれ始めたのは、呪文だった。
 長く複雑な呪文に、身体が軋むのを感じながら、カーレッジは目を閉じた。

 闇を完全に打ち払うことが出来なかったとしても。
 せめて、夜明けのような淡い光だけは取り戻そう。女王の手が世界中に伸ばされる前に。せめて、アリウスから離れた場所ならば、まだ、人が生きていけるように……

 心の中だけで、すまない、と呟く。
 別れ際、クリスケはずっと心配そうな表情をしていた。きっと、どこかで、見抜かれていたのだろう。本人は、はっきりとは気づいていなかったとしても。





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 押し潰されるような酷い圧迫感と、浮遊感とがいっぺんに襲ってきた。派手なスプラッシュ音と、二人分の悲鳴があがって、反響して、消える。
「………鼻打っ、た…」
「いっ…痛い……うう…」
 もろに打ちつけた背中を押さえながら、クリスケはのろのろと身体を起こした。隣では、グリムが蹲って顔を押さえている。……どうやら、この魔法陣は二人で一気に通れるようには出来ていないらしい。
「ノコは」
「待って…」
 辺りを見回して、クリスケはほっと息をついた。坂道を登った先、薄明るい出口の前に、ノコが立っている。こちらに背を向けているから、気付かなかったのかもしれない。これならすぐに追いつける。なんとか立ち上がって、駆けだすと、後ろからグリムの声が追いかけてきた。
「ノコ! もういいでしょう、早く……」
 その先の言葉は聞こえなかった。ノコの腕を掴んだまま、クリスケは立ち尽くした。
 視界の彼方に、蒼銀色の光が輝いている。洞窟の外には、蒼く照らされた、真っ平らな、がさがさの荒野が延々と続いていた。見覚えが、あった。
 崩れそうになったクリスケの身体を、駆けてきたグリムが、慌てて支えて——喉の奥で、短い悲鳴を上げた。
「…何処、ここ」
 吹き荒ぶ風と、荒れる海の唸り声が、低く地響きのように鳴っている。今は、一体、本当に夜なのか、それとも、朝なのか昼なのか、それすらもクリスケは分からなくなった。小さな虫達の気配どころか、草木一本すら生えていない、時の止まったような世界。遠くに僅かに切り取られた影の稜線は、アリウスからいつも見ていた山の輪郭と、同じだった。間違いなく、ここは、
「違う……。違う!違う!! こんな場所、地上なんかでも、アリウスの外でもなんでもねぇっ!こんな場所が」
 ノコの絶叫が、途中でぶつんと消えた。
「…なにか聞こえる」
「歌……? まさか」
 グリムの口を、ノコが問答無用に手のひらで塞いだ。目を、荒野の彼方に釘付けたまま、三人はじっと耳を澄ました。吹き荒ぶ風の中から、何かが、微かに聞こえてくる。切れ切れの、まるで歌うような——
「カーレッジだ……」

 いくつものことが、同時に起こった。
 一斉に震え、収束し、落ちてきた星の光を、地上から放たれた一本の光の矢が、打ち返した。一瞬、昼のように明るくなった世界が、あっという間に再び闇に飲み込まれる。天へ戻っていく光の中から、いくつかの光が散って、地上へ落下していった。荒野の彼方に輝いていた蒼銀の光が、消えた。
 そして、クリスケ達は、天の星の明かりが少しだけ明るくなっていることに気づいた。それどころか、不自然な漆黒に塗り潰されていた夜空が、懐かしい、優しい濃紺の色に戻っている。荒野は闇に沈んで見えなくなっていたが、山の稜線は先ほどよりもはっきりと、見えるようになっていた。
「信じらんねえ……」
 ノコの声に、のろのろとクリスケは視線を向けた。目が合うや否や、ノコはいきなり自分の顔をぱんっと叩いた。そのままの姿勢でしばらく固まってから、ぼそりと呟く。
「……でも、夢じゃねえ」





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