緊張で逸る息を、吸って止めて、クリスケは真っ暗な階段を少しずつ下りて行った。手がかりになるものもないので、指先を壁にひっかけるようにしながら、一段降りる度に次の段を足で探す。もしも足を踏み外してしまったら……考えたくもない。
 十段ほど下ったところで、ふいに、降ろそうとした足が平らな地面にぶつかった。ふう、と止めていた息を吐きだす。心臓の方が先に音を上げるところだった。振り返ってみると、もうすっかり入口の輪郭が暗闇に沈んでしまっている。
「もう、いいかな」
『……そうだな。流石にこの先、明かり無しで進む訳にもいかないだろう』
 頷き、クリスケは服の中にしまっていたペンダントをひっぱりだした。淡い光に照らされて、地下の道がぼうっと浮かび上がる。不思議な文様の刻まれた天井が、クリスケでも手を伸ばせば届いてしまいそうなくらい低いところに、延々と続いている。壁に嵌め込まれた石は、女王の仕掛けた地震のせいか、ところどころが崩れ落ちて、黒い地面が剥き出しになっていた。
「何か、抜け道というか、遺跡みた……っ、うわ、危な…」
 前に出した足を、慌てて引っ込める。平らな地面はまたすぐ落ち込んで、さらに奥深くへと階段が続いていたのだ。
『これは……明かりが無かったら落ちていたかもしれないな』
「うっ…。考えたくないよ……」
 溜息をひとつついてから。気を引き締めるように軽く頭を振ると、クリスケはもう一度階段を降りはじめた。さっき降りてきた階段よりも、ぐっと深く段が切りこまれている。ざらざらした壁が手のひらに痛かったが、離す訳にはいかなかった。


 道が再び緩やかになる頃には、クリスケはすっかり息が上がってしまっていた。距離にしたらそれほどでもないだろうが、こんな真っ暗な中で、こんな急な階段(しかも手すりなんかないのだ)を降りていくのだから、緊張で息があがるのだ。微かな空気の流れはあるものの、淀んだ空気は湿っていて、黴臭い。深呼吸してもなおさら苦しくなってしまう。
 なんとか呼吸を整えながら、クリスケはふと吐息と一緒に質問をぶつけてみることにした。
「あの、さ。この街、今、地下に沈められてるんだよね? こんな地下の道、まっさきに壊れてそうな気がするんだけど」
『ああ……父から聞いた話では、地下道全体と、周辺の土壌に、古代の不破の魔法がかけてあるんだそうだ。女王が街を沈めた時に、土壌ごと沈めていなかったら、流石に崩れていただろうが』
「……そうなんだ」
 控え目に相槌を打つ。視線を落とすと、時を止めたような、冷たく黒い石畳が、幽かに濡れて光を反射していた。それはきっと、とても大変な魔法で、少しの場所にしかかけられないものなんだろう。
 こんな狭い地下道なら守れても、きっと、あの広いアリウスの街を守ることは、そんな凄い魔法があったとしても、無理だったのだ。
『クリスケ』
「……? …あ」
 名前を呼ばれて、顔を上げたクリスケは、はたと足を止めた。
「分かれ道だ」
『参ったな……恐らく一本道だと聞いていたが』
「どっちかが外れで落とし穴が仕掛けてあったりとか、そんなことないよね?」
『元は脱出通路として造られたものだから、流石にそれはないはずだ。行き止まりか、もしくはどちらも抜け道に続いているか……壁から手を離さないようにして、両方の道を順に辿るしかないだろうな』
「……ちょっと待って」
 呟くと、クリスケはふっと目を閉じた。迷子になった小さい兄弟を探す時、微かな泣き声や物音を探す時、そうするように、耳に神経を集中させて、息を殺す。しん、と静まり返っていても、耳は痛くならなかった。微かな音が、空気に溶けるようにして、響いているのだ。
「何か聞こえる。こっちから」
 すっ、とクリスケの手が右の道を指さした。
『私には何も聞こえなかったが……』
「大丈夫、オイラ、耳には自信あるんだ。もし行き止まりだったら戻ればいいんだし、もしかしたら、風の音かもしれないよ」
『…そうだな。時間も惜しい。行こう』
「うん」
 足を踏み出しながら、クリスケは一度だけ、来た道を振り返った。闇と静寂だけが広がっているのを確かめて、視線を元に戻す。
「(何か他にも聞こえた気がしたんだけど、気のせいだったかな)」





 先に進めば進むほど、その音は大きくなっていった。近くなったり遠くなったり、緩やかなリズムが狭い通路に反響している。聞いているうち、ふっと記憶が蘇ってきて、クリスケは首を傾げた。間違えるはずもない、この音を、自分はあまりにもよく知っている。
「…波の音?」
『そう聞こえるな……』
 もともとアリウスは、海辺の街だ。街の何処へいても、潮騒の音が風に乗って聞こえてくる。夜眠る時も、子守唄のように波の寄せては返す音が聞こえてくるものだった。
「でも、今、ここ、地下だよね。……海の水が入ってきてるのかな」
 言いながら、クリスケは少し顔を曇らせた。せっかくここまで来たのに、海水の浸食で行き止まり、なんてごめんだ。今からでも引き返して、もう片方の道を辿った方がいいのだろうか。
 そんなことを考えながら歩いていたものだから、どうやら視界がお留守になっていたらしい。
「いてっ」
 ごつん、という鈍い音が暗闇に響いた。
 ちょっとだけ目に涙をにじませて、何かにぶつけた額をさすっていると、ふいに、誰かの手が肩に触れて、クリスケは顔を上げた。
 同時にまた、ごん、という音が響く。
 もちろん、こんな場所で後ろに誰かがいるはずはない。分かっている、分かってはいるのだが、
『……すまない』
「うう…ごめん、なんかやっぱり、まだちょっと、慣れないかも……」
 苦笑いして、押さえていた額から手を離す。そして、そこで初めてクリスケは、カーレッジが肩に触れた理由が分かった。
 数歩前の地面の色が、明らかに変わっている。——濡れている。よく見ると、表面が微かにさざ波だっていた。やっぱり海水が、と肩を落としかけて、クリスケは息をのんだ。
 視界の端に、蛍のような青緑の燐光がちらついている。
 大きく水音を跳ね上げながら、クリスケは走りだした。
 頭上から鍾乳石がつららのように垂れ下がっている。いつのまにか、通路は天然の洞窟に変わっていた。頭をぶつけないように背を屈めながら、燐光を追いかけて、大きな岩を迂回する。同時に、視界が開けた。
「……着いた」
 小さく呟いて、クリスケは表情を緩めた。
 魔法の知識が無くたって、直観で分かる。
 大人が手を広げたくらいの直径の魔法陣が、微かに蒼く発光しながら、そこに佇んでいた。発光のリズムに合わせて、風と、海の水が、呼吸するように流れ出している。黒く濡れた岩が、光を反射して月夜のようにきらきらと光っていた。
「外の匂いがする…」
『…ああ。これが、“抜け道”だ。この魔法陣は、アリウスの郊外——かろうじて沈まずに、地上へ残った洞窟に繋がっている。……一番近くへ繋がっているものが崩れずに残っていて、よかった』
 気を抜いたら、懐かしさで泣いてしまいそうで、カーレッジの声はほとんどクリスケに聞こえていなかった。ごしごしと乱暴に顔を擦って、小さく呟く。
「帰ったら、みんなにこの場所、教えてもいいよね」
『……少しずつ、な。一度に情報を広めたら、住民が押し寄せてパニックになる。そうなれば、女王に知られる。塞がれるか…それだけでは済まないかもしれない。アリウスの外へ通じている転送魔法陣は、他にもある。そのうちのいくつかは、崩れずに残っているだろうから……私の代わりに、街の人々へ伝えてくれるか』
「言うなって言われても言うよ、たぶん」
『ありがたいな。…ただ、少しずつ、というのは忘れないでくれ。街の人を、一人でも多く逃がす為にも』
「わかった」
 返事もそこそこに、クリスケが足を魔法陣の中へ入れようとすると、慌ててカーレッジが『少し待ってくれ』と言って肩を掴んだ。
『もうひとつ、約束してほしい』
 早く外へ出たい、と逸る鼓動を押さえながら、クリスケは顔を上げた。静かな、感情を抑えたような声が、淡々と響く。
『地上へ出たら——いや、魔法陣の先は洞窟だから、地上とは少し違うが……とにかく、魔法陣を抜けたら、……そこでお別れだ。その先は、私一人で行く』
「…え?」
 言われた言葉が理解出来なかった。つまずいて転んだ思考を慌てて引き戻し、口を開く。
「 え、……なんで、だって、さっき、カーレッジは一人で動けないって」
『そこから地上までの距離なら、なんとかなるはずだ。束の間でも人の身体と共にいられたから、…少しの間なら、私の魂も耐えてくれるだろう』
「くれるだろうって……いいよ、せっかくここまで来たんだから、」
『危険なんだ。……分かってくれ』
 静かでも、有無を言わせない声だった。クリスケは黙り込んだ。俯いて、視線を地面に彷徨わせてから、もう一度顔を上げる。
「カーレッジは、何をしにいくの」
『…………』
「教えてくれたら、…その、じゃあ、オイラもすぐに帰る。でも、教えてくれなかったら、確かめに追いかける」
 言ってから、しまった、と思った。こんな言葉が言いたかったんじゃない。
 波の音だけが朗々と響く。人の声が消えた静寂に、背筋が寒くなる。こんな言葉、言いたくなかった。でも、ずっと胸に引っ掛かっていた。
 このひとは、何をしようとしているのか。地上は今、どうなっているのか。自分たちはこれから、どうなるのか。
 心臓の音が聞こえてるんじゃないだろうか、というくらい沈黙が続いてから、やっと、カーレッジは低い声で言った。
『……女王の力がこれ以上増大するのを、妨害しにいく。これ以上言わせないでくれ』
「……わかった」
 言いたい言葉を十くらいは呑みこんで、クリスケは頷いた。それでも、一つだけどうしても呑み込めなくて、掠れた声で呟く。
「オイラが帰っちゃったら、帰り道は、どうするの」
『心配しなくてもいい。…大丈夫だ。そのペンダントを、』
 ちゃり、と微かな金具の音を立てて、ペンダントが揺れた。カーレッジが触ったのかな、どうやって触ったんだろう、とぼんやり考えるクリスケの耳に、少しだけ柔らかくなった声が言う。
『あの噴水に沈めておいてくれ。そうすれば、私はそこへ帰る』
「………本当に?」
『ああ。私の魂を留める魔法で作られているようなものだから、心配はいらない』
 魔法の知識があれば、この言葉が本当なのか嘘なのかも、分かったんだろうか。ひとつ、溜息をついて、クリスケは小さく頷いた。
 もうこれ以上、言うことも、何かを聞くことも、無理だろう。
「じゃあ、行くよ」
『ああ。頼む』
 クリスケが魔法陣に足を踏み入れると、ふわり、と風が吹いた。髪が、服の裾が、魔法陣から吹きあがってくる風にあおられて、大きく揺れる。

 浮いた、と思ったとたん、光が爆発した。

「……っ…!」
 思わず、ぎゅっと目を閉じる。一瞬、吸い込まれるような、身体を強く締め付けられるような感覚が通り過ぎて、すぐに消えていった。風が収まり、足が地面に触れる。
 ぱしゃん、と水音がした。


 おそるおそる瞼を開けると、さっきまでいた洞窟によく似た光景が広がっていた。けれど、決定的に変わっていた。目の前の、坂を昇った先の闇が、薄明るくぽっかりと切り取られている。
「出口…?」
 数歩前に出て、見上げたままの姿勢で固まっていたクリスケは、ふと、肩にカーレッジの手が触れたのがわかって、目を瞬いた。振り返らずに、視線をあげる。
『色々と、頼んでばかりになってしまったな。……すまなかった。本当に、助かった』
「…いいよ、これくらい。ちょっと一緒に来ただけなのに」
『私としては、幽霊のような存在の頼みを引き受けるだけでも、とても"ちょっと"とは形容出来ないと思うんだが』
 微かな苦笑が聞こえて、クリスケもつられて少しだけ笑みをこぼした。右手を、前に差し出す。
「また会える?」
『廻り合わせがあれば』
 少し冷たい指先が、手のひらに触れた気がした。最後に、と言って、カーレッジはアリウスに残されているはずの抜け道の場所をとうとうと告げた。このアリウス郊外に通じているだけの抜け道はあまり使っても意味がないから、もっと別の、人がいる町や村の近くに通じているものを使うように、と付け加えて。
 クリスケが全部暗唱出来るようになったのを確かると、カーレッジは言った。
『……あまり驚かないでくれよ』
 同時に、右手に触れていた手の感覚がぐっと重くなって、クリスケは目を見開いた。目の前で、風が渦を巻いて、幽かな光がこぼれる。魔法陣の中で見た風景を、もう一度、今度は外から眺めているようだった。
 ぱしゃん、と水音が跳ねる。
 膨らんだ光と風の渦は、あっという間につむじ風のようにほどけて、収束していく。その中から現れた人影は、目も口も開いてぽかんと突っ立っているクリスケと目が合うと、苦笑した。
「…そんな顔をしなくてもいいだろう」
 カーレッジが、そこに立っていた。一度見た、幽霊のような霞んだ姿ではなくて、まるで本当の生きた人間のように。その声は、もう籠ったりなんてしていなかった。本当の人のように、凛と、空気を震わせている。
 カーレッジと、自分の胸にかかったままのペンダントを交互に見比べて、クリスケはぱくぱくと口を動かした。声が出ない。一度、つばを飲み込んで、やっと言葉が戻ってくる。
「え、その、だって、なんで、というか、どうやって」
「ここから地上までならなんとかなる、と言っただろう? 実体がなくては歩くことも出来ないから、ペンダントの力を借りて、少しの間だけ、魂を人の身体に似せているんだ」
「そういうことはもっと早く…」
「…すまない。説明するよりも実際にそうした方が早いと思ってな……」
 言葉だけで言われても信じられなかったろう?と言われて、クリスケは頷いた。
 右手に乗ったままのカーレッジの手から、重みが伝わってくる。本当に、そこにいるのだ。クリスケが口を開きかけると、それを遮ってカーレッジが言葉を継いだ。
「さあ、もう帰るんだ。家の人たちが起きだす前に帰らないといけないんだろう」
「……うん」
 カーレッジが手を離す。手の重みが、右手の上から消えていった。視線に促されて、もう一度、クリスケは魔法陣に足を踏み入れた。風と光が舞い上がる。振り返った一瞬、蒼いマントが翻って、カーレッジが小さく手を振っているのが見えた。
さよなら
 言葉は、光の奔流に掻き消されて、聞こえなかった。


最後に、お前に会えて良かった





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 瞼の裏から光が消えていって、足がもう一度水の上に触れて、クリスケは目を開いた。光の中からいきなり暗闇に突き落とされて、視界がほとんど利かない。ごしごしと瞼を擦って、顔を上げる。
 本当にカーレッジは大丈夫かなとか、早く帰らないととか、みんなにどうやって抜け道のことを説明したらいいんだろうとか——そんな考えていた諸々のことが、一瞬で吹き飛んだ。

 目の前に、泥と擦り傷だらけになって、ランタンを提げたノコが、ぽかんと口を開けて、突っ立っていた。



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