語り部の吟唱と黒き精霊の魔法に包まれて、
“貴方”が目を開くと、視界には見知らぬ文字が一面に並んでいました。
どうやら此処は図書室のようです。
空間に満ちていた静寂がふいに破られ、視界が動きます。
開け放たれた窓から聴こえてくるのは、懐かしいクラウン・エテルナーレの歌声。
窓の外で踊っているブルーシアと、彼女を見上げているレメの姿が遠く映り、
貴方は、世界の時が巻き戻されたことと、
また見知らぬ誰かと視界を共有することになったことを悟ったのでした。

「さあ、皆さん、手拍子をお願いしますよ!
我らクラウン・エテルナーレの歌姫、そして最高の踊り子、
蒼い天使の為に――さぁ、風よ、謳おうではないか!」

「凄い、凄い、薔薇の花弁が羽みたいだ!
ねえ、レメ兄ちゃん、今の見た!?
凄いねえ、あの翼、本物かなぁ……
兄ちゃん? ねえってば、聞いてる?」



――むかしむかしのお話です。
大森林に寄り添う美しき街、ルド・ウィーンに、心優しい、一人の巫女がおりました。

彼女の名はびいん。
言葉と魔法を失った代わりに、智の民として唯一翠の言葉が分かるようになった彼女は、
森と街との橋架けとなり、この三年間、二つの世界は共に美しく発展してきたのでした。

ある日のこと。王都の大学から戻った巫女の幼馴染が言いました。
「きっと元に戻してやるから」と。
巫女が黙って首を振ると、少年は驚いた様子でした。
けれど、巫女が言葉を返す手段はありません。
――仮に言葉があったとしても、伝えられたかは分かりませんが。
 
「……アンタ、農民じゃないだろう。
こんなところで何してるんだ?」

「幼馴染? 巫女の?
……ああ。あの子が時々描いてたの、お前か。
ここに並んでたって、巫女には会えないぞ」

「まあ、元々行きたかった訳だし、
ついでと思って、こう、ちょちょいとだな、
テメーさんが元に戻れる手掛かりも探して――
え、あ? 何だって? 心配すんな、きっと見つかるからよ、
……違う? 違うって何が……戻りたいだろ?
だって、あんなに凹んでたじゃねーか」
 
少年は、バルは、びいんが巫女になってしまった当時のことを良く覚えていました。
そして、彼女が元に戻る手がかりは、翠の民の中にあるはずだと信じていました。
疑問を抱えながらも、少年は大森林に通い始めます。
時に道に迷い、時に傷を負いながら。
三年前に見た幼馴染の苦しみが、彼の盾。好奇心は剣になりました。
森の奥へと足を踏み入れられるようになるに連れて、翠の民の友人も増えてゆきました。

「……お兄ちゃん、なんでこんなとこでブッ倒れてるですぅ?
そんな適当な装備で大森林に入ったら、
体力持たないに決まってるですぅ。
この近くに喫茶店があるから、そこまで案内するですぅ」

「あ、まみから聞いてるよ。学者さんのタマゴなんだって?
俺とか、俺の友達で良かったらいつでも協力するからさ、
気軽に呼んでくれよな」

「……うん? ごめんよ、歌ってたから聞こえなくて。
今の歌? ああ、僕らの森に伝わってる古い歌だよ。
翠の民の神話みたいなものさ」
巫女は、空を見上げることが多くなりました。
ある日、薄曇りの空から翼の民が降りてきた時も、彼女は少しも驚きませんでした。
長旅の疲れを労い、ルド・ウィーンへ丁重に迎えることを巫女の従者が街へ伝えます。
何が起きているのか、びいんは誰よりも早く知っていたのです。

「翼の民? あの、フェリン教の創世神話に出てくる?
伝説だろ? …って、え、今街にいるの!?
はぁ、内乱…?それでこっちに避難してきたって?
何処も大変なんだなぁ……」



やがて、バルは、翠の民の力について、一つの手がかりを見つけます。
それは、森の奥で床に臥す少女が語った物語。
自らの命を、その火が消える直前まで森に分け与えれば、もう、翠の声は聞こえなくなるのだと。
手がかり、ではありました。けれど、そんなことを幼馴染に勧められる訳がありません。

ただ、分かってきたこともありました。
普通の翠の民が森と会話する時、その声は、人同士の会話と同じ距離までしか届きませんが、
びいんは、大地と根が繋がってさえいれば、大陸中の森の声を、聴くことが出来るようなのです。
それは明らかに、異質な力でした。
理由も、原因も分かりませんが、ただ翠の民と同じ力を得た、という訳ではなさそうでした。
 「最近はなんだかずっと雨ですねぇ。
あんまり外で遊べないからつまんないですぅ」

「あのさ、バル君。きみ、もう森の奥まで行けるようになった?
お願いがあるんだけど……ボクの妹に会ってみてほしいんだ。
多分、きみの役にも立つと思うから」


「その巫女さんが羨ましい……。
アタシはもう、自分の力では、翠の声が聞こえないんだもの。
多分、その子も、自分の力をぎりぎりまで解放したら、
翠との繋がりは切れるかもしれないけど……
やめておいた方がいいよ。
手掛かりになれなくてごめんなさい」

そう語るバルの言葉を、びいんは黙って聴き、微笑み、頷いてみせました。
彼の掌を取り、たどたどしく、文字を綴ります。
『ありがとう』 『でも、もう、いいよ』 と。

バルは大森林の最奥を目指します。
ハララヒララが教えてくれた、翠の民の中でも一番森に近しいという娘を探して。

ルド・ウィーンでは、天から避難してくる翼の民が後を絶ちませんでした。
翼の民にとって、地上は未知と恐怖の場所でしかありませんが、
血と争いがもたらす恐怖に比べれば、まだマシだ、と彼らは口々に言いました。
不慣れな場所で不安げに身を寄せ合う翼の民に、森と街の民は優しく世話を焼いてやり、
親切のお返しにと、彼らは二週間居座っていた雨雲を追いやり、太陽を呼び戻してくれました。


 「この地図……森の一番奥じゃないか。
こんなところまで行っても……その、うーん……。
ここにいる子な、めちゃくちゃ美人だって有名なんだけど、
そのー、俺達の間でもちょっと怖がられててさ……。
全然動かないし、食べないし、喋らないんだよ」


「ああ、バル君か。久しぶり。
この長雨だろう、僕の森も弟もちょっと弱っててね、
今日は薬を貰いにきたんだ。
天気ばっかりは、人にはどうしようもないからなあ……」



「……知ってる」
「その子」

「わたしたちは、同じ」

「願った」
   「願ってる」
「今も」     
   「祈り続けてる」


「でも」「たぶん」
「もう駄目だと思うなあ」

「あのこは諦めてないみたいだけど」


 
 


森の一番奥で、植物に埋もれるように佇んでいたルリウメは、
瞬きもせずにぽつぽつと言葉を呟いただけで、
無表情のまま、すぐに口を閉ざしてしまいました。

びいんを知っていると呟いた彼女に、バルは追求します。
何故、彼女なのか。何故ああなってしまったのか。
ルリウメはそれには答えず、ただ呟きます。
私たちは、祈っているのだと。
何を、と問うたバルに、ルリウメは初めて、微かに笑いました。
貴方はきっと信じない。
だけど、その方が良いのだ、と。

そして、それきり、バルが何を話しかけても、
ルリウメは答えてくれませんでした。


行き詰まりでした。
びいんを元に戻す手掛かりも、そもそもの原因も、全く分からないまま。
何より、本人に戻りたいという意志が無いのですから、
これ以上はもう、自分に何か出来ることがあるとは思えませんでした。
バルは、王都の大学へ戻ることも考え始めます。

しかし、天候の悪化が彼の行く手を阻みました。
ルド・ウィーンを不自然な冷たい豪雨と、異常な暑さとが交互に襲い始めたのです。
王都へは長旅です。天候の安定を待つしかありませんでしたが、
日に日に天候は悪化し、ついに、季節外れにも程がある積雪が観測された日、
天候と大地の安定を求めた人々がびいんの神殿に殺到し、
バルや千歳丸ですら、神殿内部に入ることは出来なくなりました。


 「そうか、帰っちゃうのか……寂しくなるなあ。
また里帰りした時には顔見せてくれよな。
そういや、王都への街道って、もう大丈夫なのか?
最近の雨で、崩れてる場所があるって聞いたんだけど……」

「ボクのハーブ畑が枯れちゃったよ……。
ストックがあるから、喫茶店はまだ続けられるけど……。
今年の夏は一体どうしちゃったんだろう」

「駄目だ。食材受け取ったら即効門前払い。
百姓のじいさん達がパニック起こしかけてる。
びいんは門番に出てくるなって止められてたよ」



やがて、ルド・ウィーンを訪れた旅人を通じて、
現在の異常気象は、天空で起こっている翼の民の内乱、もとい、
天候魔法の乱用によるものだということが発覚します。
その事実になによりも驚いたのは、地上へ避難していた翼の民たちでした。
彼らは、もちろん、天候魔法の乱用は天候の制御を失うことに繋がると、知っていました。
けれど、まさか、天空王国から遥か遠く離れた地上にまで――
世界全体の天候バランスにまで影響してしまうだなんて、夢にも思わなかったのです。
長い長い年月の間、翼の民にとっては天空王国こそが世界の全てであり、
雲下の大地など、彼らの生活には全く関係ないものだったのですから。


人々の恐怖は、ルド・ウィーンに避難していた翼の民へと向けられました。
彼らは徐々に居場所を失い、街の郊外へ、さらに外の草原へと追いやられてゆきます。
ほとんどの翼の民は、無知の罪の意識から、黙って迫害を受け入れました。
けれど一人、血の気の多い若者が、雷を呼んで、街の民を傷つけてしまいました。
地上の民と翼の民の間に、ピリピリとした空気が漂い始めます。

やがて雨が止みました。
歓びも束の間に、恐ろしい日照りがやってきました。
一季節の間、雨は一滴も降らず、太陽がギラギラと空に居座りました。
八年前の日照りよりも尚酷く気温は上昇し、森と川は少しずつ枯れてゆきました。
枯れる森に引きずられるように、翠の民も次々に倒れてゆきました。

バルは、王都で得た知識を元に、友人を守ろうと必死に走り回りました。
濁った水を浄水しては、脱水症状を起こした人々で埋まった病院に届けて回ります。
けれど、水の願歌を使えない彼に出来ることには、限界がありました。

ある日とうとう、一人の翼の民が、翠の民を殺してしまいました。
先に攻撃を仕掛けてきたのは向こうだと、彼は正当防衛を主張しましたが、
翼の民への迫害はますます激しさを増し、武力衝突が始まりました。
戦いを嫌い、より遠くへ逃れて行った翼の民も多くいましたが、
降り積もった怒りから、攻撃を選ぶ翼の民もやはり多くいたのです。

迫害を厭み、天空へ戻った翼の民によって地上の現状が知らされると、
地上への怒りは脚色され、同胞を救うという大義の元に大勢の翼の民が地上へ向かいました。
振り上げた剣は振り下ろすしかありません。内乱に疲弊していた人々にとって、
葛藤や罪悪感を感じずに剣を向けられる対象があれば、それで良かったのでしょう。


乾燥しきった森に、青空から呼び出された雷の雨が突き刺さると、たちまち焔が上がりました。
逃げ惑う人々の流れに逆らって、バルはびいんの神殿へと走ります。
門番はいませんでした。大勢いた巫女の従者も、誰もいませんでした。
神殿の奥で、耳を塞ぎ蹲っているびいんを守るように、千歳丸が膝を付いています。
バルの足音に、びいんは顔を上げました。
きつく組み合わされた両手には血が滲んでいました。祈りを捧げていたのだと、すぐ分かりました。

バルが火と風の精霊に呼びかけ、神殿と森を少しでも炎から守ろうとすると、
びいんは黙って首を横に振り、バルの手を掴みました。
震える指が、言葉を吐き出していきます。
『もういい』
『だめだった』
『もういいよ』
『ありがとう』
『ごめんね』。













視界を白く塗りつぶすような稲光。けれど、雷鳴は、永遠にやってきませんでした。
゛貴方”はこの光景を知っていました。
ひとつ前の物語で迎えた終わりの形と、それは、全く、同じ。
瞬間的な激しい光。静寂。

そしてまた、全てが無になりました。

語り部と黒き精霊の待つ、あの森を残して。



「えっちょっ、僕雨降らせてないのに土砂降りなんですけど!
なにこれすごい!!自然の雨なんて何年ぶりだろう!!
いや、でも、こんな激しい土砂降りじゃなくても良いんですよ!?」
「うわ、アレ、翼の民の集落か? あんなにいんの?
今更こんなに降りて来てどーすんだよ、もう天候ガタガタだし。
どーせまた地上は野蛮だの何だの言ってんだろマジウケルぅ」
「ひよりちゃん棒読みになってますよ。怖いですよ」
「アンタも目が笑ってないぞ」
「とりあえず世界全部ヤバいのでこの街はスルーさせて頂きます」
「マジでこの天気の中行軍すんのか。もう魔法効かないんだろ」
「申し訳ないですがお繁さん最優先です!
あの森はぎごくちゃんの故郷でもありますしね」
「………うるさい。」


「今の天候が、翼の民のせいだって? 街の人に言われた?
嘘だ、そんなの。そんなの、聞いたこともないよ。
……ブルーシア。大丈夫だよ。そんな顔をしないで。
内乱が起きたのは君のせいじゃないんだ。
君を利用しようとした奴らが全部悪いんだ。泣かないで……」


「……ああ。バル君か。久しぶり。
僕の森はもう駄目だ。みんな死んでしまった。
僕はなんとか逃げられたけど、家族はみんな駄目だった。
弟も、大森林へ向かう途中で……。…………。
ごめん。僕は大丈夫だよ、ごめんね。それじゃあ。さよなら」


「まだ薬はある。でも水が無いんじゃあどうしようもないんでさぁ。
……八年前を思い出しちまいますよ、全く。
酷ぇ話だ。しかもこれが人災だってんですからねぇ」


「…は?……死んだ? ネウさんが?
や、やめろよまみ、そんな冗談、冗談でも聞きたくないぞ!
だって俺、つい昨日会ったぞ普通に、そんなすぐ……。………。
まさか、……あいつらのとこに行ったのか?
嘘だろそんなの…敵討ちとか…そんなことしてもクレスはもう…」





「…遅い。バル。遅すぎだよ。
びいんは絶対に此処を動かないって言ってる。
後はアンタに任せる。僕ももう身体が限界だから。
…え? 逃げないよ。何言ってるのさ、今更……」






「ごめんねって、なんだよ……意味が分からねえ!
逃げるんだよ、早く、此処にいたら火が、
いくら俺でもこんなの防げる訳がねぇだろうが!
早く、ほら、立てよ、立てったら、馬鹿…!」







「知ってたのか…? 全部、最初から……
いつか、こうなっちまうって……それで、ずっと祈ってた?
馬鹿か、そんなの、そんなので、世界が変わる訳ないだろ…?」

「なあ、びいん、どうしてだ、どうしてこんなことになったんだ?
何処からおかしくなったんだ、どうして…?
もし、俺が、もっと早く色んなものに気付いていたら――
もっと知識があれば――もっと人の知恵を尊重していれば――?
いや、駄目だろーな、分かってら……いいんだ。
人の力じゃ無理だろーよ、こんなの。
でも、もし、分かっていたら…こうなるって分かってたら……
俺にも、何かひとつくら






。」