■星詩家■ 雨に濡れた月
真っ白な世界。 それが僕の世界の全てだと、欠片ほどの疑問も持つことなく、ずっとずっと歌をうたい続けていた。 同じ歌を、飽きることなく、何度も何度も繰り返すうちに、いつの間にか、指先が知らない曲を奏でるようになり、口は知らない物語を紡ぐようになっていた。 泉のように何処かから湧き出すその歌に、夢中になった。 それまで、微かに胸に感じていた痛みのような何かのことなんて、思い出す暇もないほどに。
僕に歌を、もっともっと新しい歌を、
聴かせて欲しいと願えば願うほど、指先と唇は、新しい歌を聴かせてくれた。 心躍る冒険の物語、悲しい恋の物語、憎しみに満ちた狂気の物語、幸せと不幸を全て抱きとめて、それは、見知らぬ登場人物たちの人生を、ひとときとはいえ一緒に歩むこと。 ひとときとはいえ、生きること。 歌の前には、白い世界には何の力もなく、空にも、海にも、野原にでも、その姿を幾様にも変えた。見たことも聞いたこともないはずの、全てを、歌声は描き出した。
(セイレーンが歌声で人間を海に引き擦り込む時) (彼は溺れ死ぬのではない、歌の世界へ行ってしまうのだ)
いつまでもいつまでも、呼吸を許された魚のように、歌をうたい続け、 自分が誰なのかなんて、思い出しもしなくなった頃、 自分は何なのかなんて、考えもしなくなった頃、唐突に白い世界は終わりを告げた。
全ての夢がそうであるように、目覚めはあまりにも唐突だった。 本当に、ついさっきまで、真っ白な世界の中で、歌をうたっていたはずだったのに、瞬きをしたとたん、視界に飛び込んできたのは満天の星空だった。 信じられなくて、何度も何度も瞬きを繰り返し、痛いくらい瞼を擦っても、星空はどこまでも実在していた。 此処は何処だと、 問いかけるまでもなく、知っていた。分かっていた。 歌をうたう中で、忘れていた、自分がそもそも何なのかということを、思い出しても、何の感情も沸いてこなかった。 擦りすぎた瞳から、雫が落ちたことにも、気がつかないほどに。
「……月がない」
一言だけ、ぽつりと呟いた言葉が、どこまでも穏やかな風にかき消されて消えた。
風の音、湖の漣、虫の声、草の葉擦れ、無音とは程遠い世界を、よろよろと歩き出す。 その拍子に、抱きかかえたリュートが、ぽろん、と鳴った。 立ち止まる。 世界はどこまでも穏やかで、まるで時間が止まったように、草原には誰もいなかった。 恐る恐る、指先を弦に添え、耳を澄まし、 歌いだす。
誰かにこの声を聞いてもらいたいなんて、 誰かに会いたいなんて、 そもそも自分は一人きりだということさえも、思いつきもしなかった。
*
——全ての夢がそうであるように、目覚めはあまりにも唐突だった。 少し膨らんだ半月の浮かぶ星空が、じんわり滲んで、冷たい雫が耳たぶを掠めて落ちていく。 しばらくぼんやりと瞬きを繰り返してから、のろのろとクレスは身体を起こした。 もう、何度めかになるこの夢は、夢だけど、夢じゃない。 もう一人の自分の記憶だ。 歌い続けていたのは、自分ではなく、
「…もう、分かったってば、ネウ」
君が、「向こう側」へ行ってしまったことくらい。
ぽろぽろと、歌にもならない旋律を奏でる。 ミラを抱きしめるようにしながら、クレスは星空に浮かぶ月を見上げた。風に流された千切れ雲が、一瞬、月の光を隠して、また何処かへ流れ去っていく。 どんなに手を伸ばしたって、雨の雫が雲上の月に届くはずもなかった。
(それでも涙に滲んだ星月は 触れればきっと濡れている)
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