■木陰宅■ とらえられない黒
どこまでも続く真っ白な空間。どこまでも続く真っ白なキャンバス。 それはもう、昼寝日和の長閑な風景。 広大な静けさと気だるさに身を任せて、(いつものように)世界をゆらゆらと漂う。 白い海の中を、たった一人きり泳ぐ黒い魚のように。 身体に馴染みきった世界を、滑っていく。 (いつものように) てるてると、他愛も無いことを考えながら、瞼を閉じかけて——
白い世界を、黒い影がひらりと横切った。
弛緩していた身体が、反射的に起き上がった。 開けた視界、真っ白な世界で、インクを零したようによく目立つ小さな黒い影。ひゅうと羽ばたいて、それはこっちにやってきた。 あんなものを造ったっけか、なんて思う暇もなく、濃淡の刻まれた黒い翅に浮かぶ、眩い赤の斑点が目に飛び込んできた。 顔のすぐ傍、耳たぶを掠めるようにして、黒い蝶が舞う。羽ばたきの音が、静かな世界に、波紋を広げていく。 くすぐったい挑戦状だ。 ——いやあ、これはもう、追っかけるしかないでしょうよ?
勢いよく突き出した手のひらは、あっけなく交わされた。 (まるで笑い声を立てながら)舞い上がる蝶を追いかけて、白い世界をぐんぐんと飛んでゆく。 何処まで行っても、その距離は縮まらない——逆に言えば、遠ざかりもしない。 変わらない風景の中を延々と飛び続けて、いい加減、何処まで行くのかと思い始めた頃。 ふっ、と足が前に進むことをやめた。 いや、やめた、というか、前に進まなくなった。
「ええ、」 行き止まり? なんだそれは? 慌てて辺りを見回すと、視界の奥を、あの黒い蝶は涼しげに飛んでいた。 ああ、これはどうやら、俺の負け、らしい。
立ち尽くして、見送る間にも、蝶はどんどん遠ざかっていく。 少しずつ小さくなって、それでも、その黒い姿が、白い世界から掻き消えることは出来ない。
(それなのに)
地平線の辺りで、微かな黒い点になった蝶は、螺旋を描いて上へ上へと羽ばたき始めた。 どこまでも、どこまでも、どこまでも、星ほどの大きさになってしまうほど高く、どこまでも。 見ているこっちが、清清しくなってしまうほどの、高い高い上空へ。 そして最後には、とうとう、消えた。
一瞬、視界に映ったものは、遥か遠い彼方から見上げる「自分」の——
*
広大なインターネットの海の中。 目が覚めてからも、しばらく、空想は首を出来る限り逸らして空を見上げていた。 あの黒い蝶、黒い羽に赤い斑点、あれは、間違いなく黒アゲハだ。 どこまでも自由に羽ばたいて、多分、あの白い空間の外へまでも届くほどに。 「そーいえば、蝶の中には海だって渡っちゃう種類もいるらしいしねえ」
世界くらい、渡れてしまうのかもしれない。 独り言を呟いてから、思わず自分の言葉に笑ってしまう。ぐぅ、と組んだ手のひらを空へ伸ばして、あくびを一つ。 「さて、行きますか」
何処まで羽ばたいてみようかね?
*
(その黒を捕らえることは出来ない どこまでも続いていく物語の行方は 白い本に永遠に綴られる活字の黒インクにも似て どこまでも、どこまでも 終わらない 境界を越えてなお 世界が続いていくように)
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