■星詩家■ 蒼爛と落ちる星
バシャンッ
聴覚が音を捉えた時には、もう、水の中に叩き込まれていた。 呆然と見開いた目に、一瞬、波紋で波立つ水面が映る。何が起きたのか理解する暇もなかった。
「———ッ……!」
がぼりと水を飲み込んだ肺が、絶叫する。 本能に突き飛ばされ、必死で水をかくと、水面に顔が逃れ出た。血を吐くように咳き込みながら、息を吸い込む。訳が分からなかった。どこまでも広がる、夜空を映した黒い水面。池なんてものじゃない、湖か何かの真ん中にいるとしか思えない。此処は何処だ、なんだって自分はこんなところにいるんだ、
「たすけ——」
叫びかけた声が水音に掻き消された。床が抜けたようだった。信じられない勢いで、落ちるように、身体が水中へ引き擦り込まれていく。もがこうとしても、足が動かなかった。どうして、と絶望に近い気持ちで視線を落とし——そのまま凍りついた。
右足に、人がしがみ付いていた。 ブーツをはいていなければ、突き立てられた爪から血が流れていたかもしれない。それくらいの強さで、がっしりとしがみついて——それでいて、氷のような無表情で、その「人」は自分を見上げていた。白い髪が水中に揺れる。自由になろうと、反射的に蹴り出しかけていた左足が、動きを止めた。この顔は、
(……僕!?)
目が合った瞬間、その「自分」が、すぅっと微笑んだ。 悪意の欠片も無い、とてつもなく穏やかな微笑みに、逆に血の気が引いた。
(…っ、……夢だ!
こんなの絶対に悪い夢だ!!)
声を出さずに絶叫し、水面を見上げた。見ている間にもぐんぐん遠ざかっていく。両手で鼻と口を塞ぎ、逃げようとする酸素をなんとか飲み込みながら、左足を振り上げる。夢だからといって、このまま大人しく溺れるなんて絶対に嫌だった。視界にちかちかと不自然な光が点滅している。思考が霞む…!
(…離れろ!
早く、覚めろ、こんな夢……!!)
キックが命中する直前で、「自分」は呆気なく手を離した。 流石に予想外で、空振りした左足もそのままに硬直していたのがまずかった。「自分」がひらりと泳ぎ、ぶつかるくらい顔を近づけてきて—— 悲鳴を上げていた。仰け反った喉から、白い泡だけが音を立てて水面へ逃げていく。首を掴む「自分」の指が、爪が、今度こそ食い込んでくる。両手両足を全部使って振り回しても、蹴っても、引っ掻いても、痛みすら感じていないのか、「自分」はあの微笑を浮かべたままだ。 視界が暗くなってきた。深くへ沈められているからなのか、意識を失おうとしているからなのか、分からない。 薄れながらも、これは夢だ夢だ夢だ絶対に夢だと呻いていた意識が、初めて呟いた。
(————殺される?) 「大丈夫だよ」
嫌というほど知っている声が、優しく囁いた。 見開いた目に、微笑が喋っているのが見えた。見慣れた蒼い星のペイントも——
(ちが、う)
「君は死なない。君を殺しにきたはずがないじゃないか。……というか、死ねないよ。まさか、自分は死ねるなんて思っていたの?」
もう、「自分」の声なんてろくに耳に入ってこなかった。「自分」の顔に浮かぶ蒼い星を、ひたすらに凝視する。左頬の、涙のペイントは、同じだ。自分のものだ。ネウのペイントでもない。これは、「僕」だ。でも、
(右目が)
蒼い星。 「自分」の顔の、右半分にあるのは、それだけだった。あるはずの右目が、そこにはなかった。星のペイントだけ。どうして、
「聞いてるの」
首に込められる力を強くされて、声も出ないまま呻いた。楽しそうに笑う「自分」の向こうに、微かに、水面の光が見えていた。遠ざかる。落ちているんだ、とぼんやり思う。やれやれ、と呆れたように首を振って、「自分」がぼやいている声が聞こえた。
「わざわざ迎えに来てあげたのに、そんなに暴れなくたっていいじゃないか」
何を言っているんだろう。
「それはこっちの台詞だよ。君がそう望んだのに」
「自分」は、可笑しくて仕方が無い、というように笑っている。 (———誰が?
なんだって?)
水中の奥深くへ奥深くへ沈みながら、右の頬に何かが触れるのを感じた。「自分」の手だ、と気づくのに少し掛かった。もう、振り払う気力も体力も残っていない。優しい手つきで、まるで愛しむように撫でる「自分」の手をぼうっと眺めてから、のろのろと視線を上げた。「自分」を見上げる。初めて思った。
(これは、誰だろう)
「君さ」 「自分」は微笑むと、歌うように続けた。
「願ったくせに忘れちゃったの?
もう歌なんてどうでもいいって。歌えなくなっても、聴いてもらえなくてもいいやって。だから喜んで迎えに来たのに。いらないって言うなら、その魂(こえ)を、僕が代わりに喜んでもらうよ。だから君は向こう側へ行けばいい」
そうすればお互いに幸せなんだから。
「君が、終わりにしたいと願ったんだろう?」
言われた言葉を理解するのに、しばらく掛かった。——理解したとたん、落ちかけていた瞼を見開いて、口が勝手に叫んでいた。声が飛び出した。
「嘘だ!!」
「嘘じゃないよ」
「僕がそんなの願う訳ないだろう!?」
「だって、ほら、君、ミラを持ってないじゃないか」
瞳が凍りついた。 勝ち誇ったような表情を浮かべて、「自分」が顔を近づけてきた。
「だから、これ、僕が貰ってもいいよね」
「自分」の手首に浮かんでいる蒼い星が、一瞬、視界に移った。
それっきり、真っ暗になった。
(たすけて)
(だれか)
(僕を起こして)
*
微かに、声が聞こえた。
誰かに肩を揺さぶられているのも、頬を叩かれてるらしいのも何となく感じる。 目を開けようとして、何度か失敗してから、やっと、ぼんやりと視界が開けた。 「——クレス!!
良かった!起きた! あー、良かった…!」
「大丈夫か、顔まだ真っ青だぞ」
「…ネギー?
ゴウも…」
心配そうに表情を曇らせた二人が、星空を背景に自分を覗き込んでいた。 しばらくのろのろと瞬きを繰り返す内に、ゆっくりと記憶が蘇ってきて——。今更のように身体が震え始めて、クレスは咳き込んだ。慌てたように、二人の手がぽんぽんと背中を叩いてくれる。涙の滲む瞼を擦ろうと右手を持ち上げて、はた、とクレスは動きを止めた。
「……えっと」
問いかけるような視線を向けたとたん、ネギタレが「あ」と呟いて固まった。
「ちち違っ、クレスが、なんかめちゃくちゃ苦しそうに呻いてたし、手も伸ばしてたからっ、つい、条件反射で!!
条件反射なんだよ、な、ゴウも見てたよな?」
「あー…まあ……あれは手を掴むのが自然だったと思うぜ?
そんな取り乱さなきゃもっと自然だったろうけどな」
「うっ…ですよねー……」
両手で頭を抱え、どんよりオーラを纏って俯いてしまったネギタレに、クレスは思わずゴウと顔を見合わせ、笑ってしまった。なんとか言うことを聞くようになった身体を起こし、傍に置いたままだったミラを引き寄せ、抱きとめる。
「二人とも、ありがとう。…多分もう大丈夫」
「本当か?
…なら良いけど、あんまり無理すんなよ」
「まあ、ちょっとずつ顔色良くなってきたみたいだし……。一応、今、サニタ君がレメを呼びに行ってくれてるんだけどさ。せっかくだし、気分転換兼ねてヘタレンジャーみんなで何処か行かない?」
うん、と答えて、夢の残りを断ち切るように、歩き始めながら。 どんな夢を見たのかと聞かれないことが、ありがたかった。一瞬、ぎゅっと目を瞑って、記憶にこびりついているあの顔を追い払う。このまま忘れてしまおう。それが一番良い。 心の中で、何度も何度も、噛み締めるように呟いた。
「大丈夫」
(落ちてゆく蒼い流れ星に、消えていく心の彼方に、 ただ、今は、星に願いを)
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