■透水家■ 空中ローズガーデン
微かな弧を描いて果てしなく続く碧い海と、お日さまの光に白く輝く雲を纏った、抜けるように蒼い空。蒼と碧の境界線には、山脈にも似た積乱雲が連なっている。 甘い空気の、どこまでも青い世界を、舞うように高く高く、翼を羽ばたかせて、飛んでいく。羽ばたいても羽ばたいても、翼はちっとも重くならない。それどころか、高く昇るほど、軽くなっていく。ちらりと視線を下げると、島影は遥か遠くの海面に、小さな真珠くらいの大きさになって浮かんでいた。 光る雲が、指先をくすぐって、風下に流れていく。ひんやりと冷たくて、柔らかで。あれ、この感じ、知ってる、そう思った時にはもう、手のひらに白いバラの花が乗っていた。ロマンチックな甘い香り。空中で氷の結晶がきらきら光って、青い空の中に何万もの白いバラが一瞬で花開いた。茎も葉も棘も白いのに、満開のバラの花びらの白さがあまりにも眩しくて、淡い青色に見えるほど。 おみやげに持って帰ろう。みんなに持って帰ろう。この小さくて可愛いバラはあの子に、あの優雅な大輪のバラはあの子に—— どんどん大きくなる花束を抱えながら、夢中になって手折っていた、から、最初は気づかなかった。摘もうとして、初めて気がついて、思わず目を見張った。鮮やかな、青いバラの花。きっと、たった今まで空の中に溶けていたに違いない。そうでなかったら、この白いローズガーデンの中で、絶対に真っ先に、見つけられたはずだもの。 そう、このバラは彼にあげよう。彼の、綺麗な銀色の髪に、きっととってもよく似合うから……
*
翼を羽ばたかせるリズムに合わせて、腕に抱いた銀色の如雨露がちゃぷちゃぷと軽やかに音を立てる。 白い漆喰で塗られた小さな家の屋上に、とんっ、と舞い降りて、ブルーシアは恨めしげに青い空を見上げた。太陽の光がきらきらと輝く、文句のつけようもない良いお天気。一人旅を楽しんでいるような千切れ雲だけが、ぽつりぽつりと蒼の中に浮かぶ快晴の空—— 「あんな高いところまで飛べる訳ないしなぁー…」 はぁ、と溜息をついて、ブルーシアは屋上に咲く小さなローズガーデンへ視線を落とした。 今朝、見たはずの、不思議な夢が、まだ微かに瞼の裏に残っている。記憶は切れ切れで、どうしても忘れたくない部分だけを必死になって持って帰ってきた感じだった。覚えているのは、何故か空のとてもとても高いところを気持ちよく飛んでいたこと(とてもじゃないけどそんな高いところを飛ぶなんて怖すぎて考えたくない、落っこちたら大変じゃない!)——と、空の中にバラの花がたくさん咲いていたこと。それと、一輪の真っ青なバラの花。レメにあげるんだ、と思ったことだけは、こんなにしっかり覚えているのに、 「摘めたのかなぁ、あれ……」 そこだけがどうしても思い出せなかった。如雨露を傾けて、真っ白なバラたちに水をあげながら、ブルーシアは首を傾げた。 ——それにしても。と、今度は反対向きに首を傾げる。 赤いバラも、黄色いバラも、緑がかったバラも、ブルーシアは見たことがあった。けれど、青いバラが咲いているのは、まだ見たことがないし、あまり話にも聞いたことが無い気がする。何処に行けば咲いているんだろう……。 「シアー、どこー?
屋上いるのー?」 玄関の方から微かに聞こえてきた声に、ブルーシアはふっと我に返った。 「いるけど、どうかしたのー?」 水遣りの手を止めて、屋上の縁の手すりから下を覗くと、チビがこちらを見上げて手を振っていた。 「ぎごくちゃんのおうちに、遊びに行ってくる!
ご飯までには帰るねっ」 「そっか、いってらっしゃーい。ささくれ君に宜しく言っといてね」 「うん!
あ、あとね、シア」 駆け出そうとしかけた足を止めて、チビが振り返った。風の匂いを嗅ぐように深呼吸して、やっぱり、と頷く。 「ちょっぴりだけど義兄ちゃんの匂いがするから、多分、さっき島に着いたんじゃないかなぁ?
もうちょっとしたらシアのとこに来るかもよ」 「え゛」 「…なにその顔?」 「えっ、うそ、本当!?
どうしようっ、(隠し撮りの)写真とか全部部屋に出しっぱなしなんだけど!
片付けないと乙女として色々っ…うわああ、水遣りなんてやってる場合じゃないじゃないいっ!」 慌てて駆け出した拍子に、バケツに蹴躓いて、如雨露を取り落として、他にもその他諸々のガーデニング道具を引っくり返して、かなり大惨事になってしまった屋上庭園をブルーシアは一瞬半泣きで振り返ったが、振り切るように扉を開けてばたばたと階段を駆け下りていった。
レメがブルーシアの家の扉を叩いたのは、幸い、部屋の掃除も、屋上の掃除も終わった後で。 流石にくたびれてテーブルに突っ伏していたブルーシアは、満面の笑顔を浮かべて、玄関へ飛んでいった。
………
(そのあとに)
「あの青いバラ、レメにあげたかったなぁ……」 一緒に砂浜に座って、夕日が海に帰っていくのを眺めた後。 青い闇に沈み始めた黄昏の渚を歩きながら、ぽつりと呟いたブルーシアに、レメは目を瞬いた。すぐに何のことか思い当たって、微かに首を傾げてみせる。 「今朝の夢の中の?」 「うん、そう。さっきも言ったけどね、すごく綺麗な青いバラだったの。きっと、レメの髪にすごく良く似合うだろうなぁって……わっ」 打ち寄せてきた大きな波に、足をすくわれかけたブルーシアを、慌てて支える。風に晒した細い肩が寒そうで、レメはそっとブルーシアの隣に寄り添った。こうすればきっと、少しは風から守れると思って。 「ブルーシア、あんまり波打ち際に近づきすぎたら危ないよ。ほら」 「う、うん。ごめん、ぼーっとしてた……」 「あれ」 「どうしたの?」 「これ……」 波と一緒に、足元へ打ち寄せてきた一輪の白いバラの花をすくいあげる。きょとんとしているブルーシアと——ブルーシアの髪に飾られている白いバラと、手の中のバラを見比べて、レメは小さく笑った。 「多分、今の拍子に落ちちゃったんだね」 つけてあげようと、伸ばしかけたレメの手を、ブルーシアがふと押し留めた。不思議そうな表情を浮かべたレメの手から白いバラをそっと持ち上げて、呟く。 「あのね、青いバラじゃないけど、これ、レメにあげたいの。駄目かな?」 「え、それは……その、構わないけど。貰ってもいいのかな」 大事な髪飾りなんじゃないのか、と心配そうに表情を曇らせるレメに、ブルーシアは笑った。 「海から来たバラだよ?
なんだか、ロマンチックじゃない。レメに持っててほしいの」 「…うん、わかった。ありがとう」 はにかむレメの手のひらに、白いバラをもう一度乗せる。 青い夕暮れの闇に染められて、白いバラはまるで、青いバラのように見えた。
(青いバラの花言葉 かつては 「不可能・有り得ない」 やがて今は 「奇跡・神の祝福」)
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