■———家■ 小瓶の中の流砂
幾層にも重なった香辛料の香りが鼻をくすぐる。 快晴の空、砂漠の中にオアシスのように存在している賑やかな街。 土煉瓦を積み上げて創られた家並みの間に、布を張り渡して日影を呼び起こす。街のメイン・ストリートから少し外れた裏通りは、月に二度、そうして砂漠一のバザールへと姿を変える。 その日も朝から賑やかな楽隊の音色が街中に鳴り響き、人々は浮き足立ってバザールへと詰め掛けていた。 買い込むつもり満々に、布袋をいくつも肩に背負い込んた客。小さな手に僅かな小銭を握り締めて、目を丸くして頼まれた品物を探す客。路地に広げられた絨毯の山に、日影に浮かび上がる砂漠の果物たち。
まだ朝早い時間なのに、空気は少しずつ熱くなってきていた。気温が最高潮を迎える真昼に商売なんてやってられないから、ほとんどの店は昼前から夕方まで一度閉店してしまう。その前に出来るだけ良いものを買ってしまおうと、人々はますます賑やかにバザールを歩き回っていた。
——その間を、滑るように歩いていく。 どきどきと、痛いくらい胸が高鳴っていた。 目当ての店は、初めから決まっている。ストリートの外れ——バザールが、少しずつ寂しくなり始める辺り、裏道へ三軒くらい入ったところ。 くるくると、万華鏡のように目まぐるしく変わる売り物の色彩に、微かな眩暈を覚えながら。それでも、足取りが鈍ることはなかった。人波が切れ始める。胸の鼓動を抑えきれずに、走り出す。砂に汚れた粗末な布靴が、勢いよく埃を舞い上げた。 「いらっしゃい」 チリンチリン、と、涼やかな音を奏でて、扉が開いた。 暗く影の落ちた店内へ、そおっと、静かに、足を踏み入れる。 埃と香草の匂いがした。 吊り下げられたドライハーブの影に隠れるようにして、背中を小さく丸めた老人が、砂時計をひっくり返している。
「何をお探しかね?」
丸めがねの向こうから、優しい眼差しが問う。 手の中に握り締めた石を差し出して、彼は答えた。砂嵐に掠れた少年の声が、店に満ちていた静寂を破って響く。
「これで取り戻せるだけの時間を」
「どれ」
よいしょ、と立ち上がった老人が、彼の手の中を覗き込んだ。 金色に縁取られたルーペが、ランプの光を跳ね返してきらりと光る。
「おお、上物だな。いい砂漠の薔薇だ。そうさな、ちょっと待ってなさい。店の中をもうちょい見てみるといい。他にもいるものがあるかもしれん」
足を引きずり引きずり、老人はハーブの奥へ消えていった。 落ち着かなげに、彼はきょろきょろと店内を見渡す。太陽はもうかなり高く上がってしまったのだろう、窓ばかりが白く輝き、店内は夕暮れのような暗さに包まれていた。 天井から吊り下がるハーブの束と競うように、壁を埋め尽くしているのは、針の止まった時計だ。そして、部屋中に置かれた大小様々のテーブルには、色とりどりの天然石の原石が積み上げられ、彼らの上には砂漠の薔薇が大量に咲き誇っている。天然石の山と山の間にぽっかり空いてしまった谷間には、何十年も人の手を渡ってきたような、時代物のアクセサリーたちが鎮座している。 うろうろと店内を歩き回るうち、彼は、ふと、視線を止めた。 アクセサリーと天然石に半分埋もれるようになっていたそれを、摘み上げる。きらりと光を反射したのは、片手で包み込めてしまうくらいの硝子瓶だった。つるりとした胴体には、なんの装飾も施されていない。ただ、中には何かが入っている。傾けてみると、さらさらと崩れて流れる。ランプに近づけてみて、やっと分かった。これは砂漠の砂だ。なんだって、瓶に砂なんて入れているのだろう? 気になってまじまじと眺めているうち、砂にまぎれて、何かが見えることに気づいた。瞳が小瓶にくっつくほど顔を近づけて、中を覗き込む。 青い色が、微かに見えた。砂漠に似た色の衣装がはためく、その隙間から、空の色が除いている。翼の幻が見えた。少女が立っていた。さらさらと流れる砂漠の砂の流れの上に浮かんで、何かを見つめている。手に何かを握っている。本当に小さい、小さい、よく見えない——
「お嬢さん」
ふいに呼びかけられ、びくりと肩が強張った。振り返る。耳の傍で、ちゃりん、とピアスが音を奏でる。 そこには、誰も立っていなかった。 強い日差しの照りつける砂漠の只中に、一人きりで浮かんでいた。
足元に視線を落とすと、ターコイズが細かに散りばめられたサンダルの下に、黒い影が落ちているのが見えた。手を開いてみる。ころん、と、硬い感触を伝えながら、硝子の小瓶が転がった。砂が勢いよく流れる。明るい日差しの下で、覗き込んだ小瓶の中には、小瓶の中の砂漠の中には、やっぱり、少女が立っていた。手元をじっと覗き込んで——
「——っ」
衝動的に、小瓶を叩きつけそうになって、ぐっと堪える。砂漠に叩きつけたって、硝子細工すら欠けるはずがない。 辺りを見回して、ふと、手首に揺れる金のブレスレットに目が止まった。 ああ、そうだ、これなら——
右手にブレスレットを握り、左手に小瓶を握り、ぎゅっと目を瞑り、右手を振り上げ、
ビシリ、と、空に亀裂の入る音がした。
*
「——っ!」
見開いた目に、見慣れた天井が飛び込んできた。信じられない思いで、天井——天蓋を凝視してから、そっと身体を起こす。ぎし、とベッドが軋む音がした。香辛料の香りがする。天蓋から垂れ下がるカーテンを、そっと持ち上げると、飲みかけのチャイを湛えたカップが、テーブルの上に乗ったままになっていた。
「夢……」
ぽつりと呟いて、視線を上げる。 テントの天井から吊り下がる香辛料の向こうには、どこまでも晴れ渡った砂漠の空が広がっていた。 切れ切れにしか思い出せない、けれど、何か、とても不思議な夢を見ていた気がするのに。
新しくチャイを淹れなおしながら、しまっておいた紙の束を引っ張り出す。 切れ切れの記憶。香辛料の香り。知識としてしか知らないはずの人の賑わい。そう、確か、砂漠の薔薇も見たような気がする。あとは、ええと、なんだったろう…… ただ一つくっきりと覚えている、これは、感情の残り香と呼べば良いのだろうか。胸の高鳴りと、緊張と、不安と、憧れと、切なさと、驚愕と、そしてこれは……
ペンの滑る音を掻き消すように。 テントが作り出す優しい日影の中を、乾いた風が通り抜けていった。
(内側へ内側へ織り込まれた小瓶の砂漠で道に迷っても 蜃気楼に目覚めの鐘を)
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