あるラスタルの話
銀色の飛行軍艦が整列する宇宙空軍基地に、今日もまた、ラスタル星から奴隷船が到着します。
軍艦と比べれば親と子ほどに小さく、機体のあちこちに傷や塗装剥げが目立つその船は、鉄板を釘で掻き毟るような音を立てて滑走路に降り立ちました。コックピットは強化硝子で囲まれ、270度の視界が約束されていますが、それ以外には窓は一つもありません。操縦士は、コックピットの窓を一つ開け放つと、機体に切り込まれた梯子を頼りにずるずると降りてきました。腰が曲がった老人で、顔中に皺や疣、紫の沁みが目立ちます。とはいえ、別にそれは特筆するべきことではありません。このコロニーの保護層特殊硝子は年代物すぎて脆く弱く、他のコロニーに住まう人々に比べ、宇宙線を防ぐ力が弱かったのです。40の年を越える頃には、男女問わずにほぼ全員がこのような顔になるしかありませんでした。
老人は、義足の足を引きずり引きずり、基地の建物の中に消えていきました。
次に出てきたときには、男を4人連れていました。足の遅い男の後ろを、背筋をぴんと伸ばした男達が、ゆっくりと着いていきます。彼らは自分の歩幅を明らかに持て余していました。けれど、うっかり老人のことを追い越せば、罵声と減給が待っています。
老人は、何かを探すように機体の中腹あたりを摩っていましたが、不意に何か腹立たしそうに吐き捨てると、鉄の船を義足で蹴飛ばしました。何度か蹴飛ばすうち、ガキンと良い音がして、機体中腹にあった扉が内側に開きました。暗闇の向こうで、何かがキラキラキラっと光りました。
そこから先はいつもどおりの光景です。老人が喚きたてます。男達が威勢良く大声を出しながら船内に入っていって、無骨な鉄製手錠で数珠繋ぎにされたラスタル星人たちを、漁の網を引くかのように引きずり出していきます。
白くすべらかな肌。輝く金色の髪。左胸には水面のような美しい鏡。背には光を織り上げて創ったかのような、透明な2対の翅。素足で、服も何も纏わぬまま。この狭い機体のどこにこれだけの人数が入っていたのかというほど、ずるずるずるずると列が続きます。68時間、船内で敷居に固定され、身動きを許されていなかった彼らは、全員が全員ふらふらです。何人かは既にこときれて、もしくは自殺して、繋がれたままの手首ごと、身体をずるずると引きずられていました。光速を超える速度で宇宙船は揺れに揺れましたし、食事と水は口の前に通されたパイプを経由して運ばれていたものの、それ以外は何の面倒も見てもらえなかったのですから。
運の悪い一人の男が、悪態をつきながらホースを使って船内の掃除を始めます。老人と、男三人は、全く逆らう体力も気力もないラスタル星人たちを追い立てて、商品としての見栄えをよく出来るように、何十列ものシャワーが待ち構える奴隷舎の方へと歩み去っていきました。
そしていつものように、奴隷市場は大盛況でした。
ラスタル達は、一列に並ばされ、順々に粗末な鉄組みの舞台へと上がります。そして、買われてゆきます。流れるように滞りなく、まるでベルトコンベアに乗せてコンピューターを組み立てるかのごとく効率的に、彼らはコロニオン星人たちに売られていきます。競りなんて非効率的で前時代的なことはやりません。前もって奴隷主は自分の希望と、それに見合うだけの金額を払い込んであるのです。たとえば、よく働くように丈夫で足腰の強いやつがいいとか、愛玩用にひたすら美しいやつがいいとか、小さいのがいいとか大きいのがいいとか。金額を多く払った順に、人々は整列します。奴隷商人たちもまた、人々の希望をチェックした上で、ちょうどよい塩梅になるように、ラスタル星人たちを整列させます。顧客ナンバー221は丈夫なのを所望。223は美人なのを。はいはい了解。じゃあお前はここだ。お前はこっち。お前は前から何番目だ? よし、いいだろう。では、売りを始めたまえ。
彼らにコロニオン星人の言葉は分かりません。知識として、彼らががぁがぁと立てている音がコミュニケーションの手段なのだと分かってはいましたが、暗闇に慣れない目からは視力がほとんど奪われていましたし、何が起きているのかほとんど分からないままに、彼らは買われてゆきました。
その列の、ちょうど後ろから三分の一くらいでしょうか、一人の小さなラスタルが、ぼうっと何も見えない宙を見つめていました。涙や、恐怖や、絶望は、68時間の船旅で擦り切れてなくなってしまいました。今は何も感じません。裸のまま、大勢の人前に連れ出されて、何か言われていることも、全てが夢の中の出来事のようでした。
やがて、順番が回ってきました。
*
50代くらいの、でっぷり大きなお腹とついでににきびも抱えたコロニオン星人がやってきました。彼の身体は牛乳に浸したっきり忘れてしまったスポンジのようにぼろぼろで、膨らんで、少々顔をしかめたくなるような匂いを発散していました。仏頂面で手続きを済ませると、彼は買い取った新しいラスタルに図田袋のようなマントを着せかけ、ラスタルの手首から伸びる商品の証、鉄鎖を自分の手の平に巻きつけ、貴族街へ連れて行きました。
「一人、寿命で逝っちまってな」
鎖に引きずられ、よろよろと歩くラスタルに、男はぼそりと言いました。当然、ラスタルには男の言葉は分かりません。ただの音の連なりにしか聞こえません。
やがて、辿り着いたのは、何処までも広がる鉄柵の中に鎮座する、大きな大きなお屋敷でした。屋敷の隅、一番小さな厨房に、男はラスタルを放り込んで、手錠の鍵を外しました。
「ここで説明を受けな。明日からは働いてもらうぜ」
それだけ言って、ばたん、とドアを閉めました。
若葉色のタイルが敷き詰められた厨房には、南に向かって大きな硝子窓が嵌めこまれていたので、部屋中に午後の日差しが燦々と満ちていました。けれど、ラスタルの目には、コロニオン星人の目で例えるならば黄昏時の最後の残光くらいの明るさにしか——言うまでもないことですが、ラスタルでは黄昏も夜も光に満ち溢れています——見えませんでした。だから、最初は、気づくことも出来ませんでした。
『きこえる?』
『……ねえ、あなた、きこえる?』
キラリキラリと、微かな光を感じたのと共に、突然伸びてきた何人もの腕が、ラスタルを抱きしめました。彼らの左胸に輝く反射鏡が、一様に、バラバラに、何色もの光を放ちました。
『かわいそうに』
『こわかったろう』
『きこえるかい? へんじをしておくれ』
光の言葉でした。本当に微かにしか聞こえない彼らの言葉に、この小さなラスタルは呆然とし、戦慄し、やっと思い出したかのように、ボロボロと泣き出しました。
『なかないで』
『なくんじゃない、しっかりしなさい、きみはまだいきている』
『おしえて、きみ、きみのなまえは?』
代わる代わる、小さなラスタルの正面に立ち、彼らは言葉を放ちました。しゃくりあげ、顔を拭い、ラスタルは左胸の鏡を揺らめかせました。小さな光が煌きました。
『……リューンィー』
『リューンィー。いいなまえだ。さあ、おいで。ふくをあげよう。あたたかいのみものも』
小さなリューンィーよりも先に、この屋敷に買われ、働かされてきた20人ものラスタルたちは、一人ずつ、彼らの名前を伝えていきました。
そして、自分達がこれから先、一生、ここで働いていかなければならないことも、その仕事の内容も、彼らの主であるコロニオン星人たちに逆らったらどうなるかも、全て、的確に、余すところ無く、伝えていきました。
彼らの母星は、確かに、コロニオン星人たちに支配されてはいました。彼らが恐ろしい存在で、捕まったら食べられてしまうとか何処かへ連れ去られてしまうとか、そんな話ならば、知っていました。けれど、遥か遥か彼方の異星に連れてこられて、彼らのために働かされるだなんて、聞いたこともありません。
『どうして、ぼくが、ぼくらが』
『それは』
泣きじゃくる小さなリューンィーに、もうここで25年も働いてきた初老のラスタルは、切なげに微笑みました。
『かんがえても、くるしいだけだ』
次の日、小さなリューンィーは、彼を買い取った男——屋敷の、奴隷頭です——に、デインという名前をつけられました。
三日間で、14発の小型スタンガンを食らった後、デインという音の並びが自分を呼ぶものなのだということを覚えました。
屋敷の裏手にある武器工場で、眩い大型レーザーを組み立てる作業は、思っていたよりもつらくありませんでした。工場の中は、少なくとも屋敷の中よりも光で満ち溢れていて、ものがよく見えました。作業と行っても、流れてくる大きなよく分からない機械に、ひたすらひたすらひたすら同じ部品を同じ場所に嵌めこんでいくだけでしたから、間違いたくても間違う隙がありませんでした。
時々はお休みをもらいました。おぼろげな暗い視界にも、二年三年と時が経つうちに慣れました。
奴隷頭のコロニオン星人は、時折小型スタンガンを振り回す以外は比較的優しく、よく面倒をみてくれました。彼もまた奴隷として働いており、屋敷の主人に時折酷く叱りつけられているのを、見かけることがありました。見てしまったことが知られれば、逆上した奴隷頭にスタンガンで殴りつけられるので、屋敷中のラスタル星人たちは、みんな知らないふりをしていました。リューンィーがひっそりと聞いたところによると、彼は、「コロニー」同士の戦争に負けて、奴隷にされてしまったのだそうでした。
屋敷の主人はいつも戦争に出ていました。腰の曲がった大奥様も、怯えた顔をした若奥様も、ラスタル星人を気味が悪いといって嫌がりましたので、ほとんど接触はありませんでした。
呆れるほどに早く時は流れ去りました。いつの間にか、母星で過ごした時よりも、コロニオンで暮らした時の方が長くなっていました。
リューンィーは、少年から青年になり、同じ屋敷で働くラスタルと恋をし、結ばれましたが、子供を産むことは許されず、強制的に堕胎させられた赤子の亡骸を掻き抱いて、ぼろぼろと、泣きました。存在しない声帯を補うように、反射鏡を眩く反射させながら。
それでも、働くしかありませんでした。
働き続けました。
ある日、空から流星が降り注ぎました。
仕事が一気に忙しくなりました。奴隷頭はスタンガンに加えて鞭も振るうようになりました。
疲労しきった身体で働き続け、働き続け、何も考えられなくなった頃、ラスタル星が宇宙の漆黒に砕け散りました。
突発的な、無計画な、ラスタル星人の反乱がコロニオン中で勃発しました。
20年もの間、心の中に沈殿していた想いを全て爆発させて、リューンィーもまた、銃を握りました。レーザーを構えました。何年も組み立ててきた武器は、自分の身体のようにしっくりとよく馴染みました。
屋敷の大奥様と若奥様を殺しました。仲間全員で奴隷頭を押さえつけ、恐ろしい憎しみと狂気と恨みを込めた眼差しで、唸り、運命を殺すがごとく、軍服を剥ぎ、包丁という包丁をその身体中に突き刺し、銃という銃を打ち込み、ばらばらの肉の欠片になってしまった元奴隷頭の上で、ラスタル星人達は狂ったように足を跳ね上げて踊りました。真っ赤な返り血が、彼らの白い肢体を鮮やかに染め上げました。
歓喜の絶頂を割るように、屋敷の主人が現れて、何百発もの弾丸を10秒で打ち出せる旧式の散弾銃を彼らに浴びせました。あっというまに、20人のラスタル星人の身体は赤い霧となりました。特別警察がコロニー中を走り回りました。
5日後の夜、ラスタル星人は絶滅しました。
*
やがて、順番が回ってきました。
*
30代くらいの、茶色の顎鬚を豊かに蓄えた体格の良いコロニオン星人がやってきました。彼の身体は、度重なる戦役の為に一欠けらの無駄な脂肪すら削ぎ落とされて、引き締まった筋肉から少しだけ酸い汗のにおいがしていました。黙々と手続きを済ませると、彼は自らのものになった小さなラスタル星人に微笑みかけました。震える身体にそっと自分のマントを着せかけ、その場で手錠の鍵を外すと、優しげに言いました。
「今日から君は僕のものだよ。長い任務がやっと終わってね、家のローンも済んだし、これで好き勝手自分の欲しいものに金が掛けられるという訳さ。ラスタル星人を買うのは、僕の若い頃からの夢でね」
幼い子にするように、骨ばった大きな手がラスタル星人の頭を撫でました。
小さなラスタルは、目を瞬いて、おずおずと視線をあげ、初めて目にする自分に乱暴しないコロニオン星人をじっと見つめました。
「名前をつけた方がいいよなあ。うん、そうだな、君は今日から——エミィだ。いい名前だろ? いやね、実はずっと前から決めていたんだよ」
にこにこと、笑顔を湛えながら言葉を続け、男はエミィの小さな手を握りました。
「僕の名前は——いや、言っても分からないだろうね。僕がこうやって喋ってる言葉も、君には分からない。構わないさ。ああ、全く構わない。さ、行こう」
エミィの手を引いて、彼は町外れの自分の家へと帰りました。小さな一戸建てで、狭いながらも庭がついており、二階にはベランダもついていました。男は玄関の扉を開けたとき、ただいま、と言いましたが、返事は返ってきませんでした。
リビングで、暗い視界に戸惑い、立ち尽くしているエミィを、男はふわりと抱きしめました。
「まずは服が要るね」
うっかりしていた、というように手を打つと、男はエミィをソファに座らせました。そして、二階へ上がっていきました。
エミィは、不安げに自分を抱きしめて、辺りを見回しました。視界は暗く、おぼろげな陰影でやっとものの輪郭が分かる程度です。ただ、ここがコロニオン星人の家だということだけはわかりました。母星にいた頃、散々聞かされていた、恐ろしいコロニオン星人の家です。彼らはラスタル星人を食い、もしくはどこかに連れ去り、儀式の生贄にしてしまうのです。エミィは12歳になったばかりでした。両親は、自分を守ろうとして殺されました。どうしたらあの懐かしい光に満ちた母星に帰れるのか、さっぱり分かりません。恐ろしい奴隷船に何十時間も揺られてやっと辿り着くような世界です。自分ひとりだけで、帰れるはずもありません。エミィはがたがたと震え、反射鏡を瞬かせると、静かに泣き始めました。
「あった、あった、これならよく似合うよ。……エミィ? どうしたんだい。泣いているのか!?」
服を抱えて戻ってきた男は、泣いているエミィを見て、心からびっくりしたようでした。おろおろとエミィの涙を拭い、遠い目で呟きます。
「そうか、そうか……ラスタル星人も涙を流すのか。知らなかった」
口元がもごもごと動きましたが、最後の言葉は声にならずに消えていきました。
男が持ってきた服は、さっぱりとしたデザインのワンピースでした。両袖はシフォン生地のふんわりとした造りです。男は少し考えてから、左胸の部分に大きな切込みを入れ、エミィに甲斐甲斐しく着せてやりました。
「食事もいるな。大丈夫、ラスタル星人が食べるものはちゃんと勉強してあるよ」
片手サイズのハンドブックをひらひらと振り、男は冷蔵庫から何かを取り出すと、機械に入れ、暖めて、エミィに出してやりました。エミィがぼんやりとお皿を見つめたままなので、男はまた甲斐甲斐しく、薄く開いた小さな口へ、スプーンを運んでやりました。
『……かえりたい』
『かえりたい』
『かえりたい』
『おかあさん』
『おとうさぁあん』
エミィの左胸で、反射鏡が弱々しく明滅を繰り返すのを、男はうっとりと眺めました。
「なんて綺麗なんだ。この世で一番美しい、天使に最も近い生命。本で読んだとおりだ」
エミィに食事をさせ終わるまで、男はずっとにこにこしていました。
甲斐甲斐しく、お風呂にもいれました。
手を引いて二階にあがり、暖房の効いた一部屋へ案内しました。橙色のランプが一つだけ灯っています。
「さあ、ここが僕らの部屋だよ」
暗闇にぼんやりと浮かび上がる部屋のシルエットを、エミィは見つめました。くたびれはてて、何も考えられません。今はただ、眠って、この真っ暗な現実から逃げてしまいたい——その願いでだけで頭がいっぱいでした。だから、ふかふかの、良い匂いのベッドに身体を横たえてもらった時、とてもとてもほっとしたのです。
眠ろうと、エミィは目を閉じました。
許されませんでした。
暗闇の中で、突然、自分の身体に覆い被さってきた重いものに、エミィは目を見開きました。熱い吐息が耳に掛かり、何がなんだか分からないうちに、乱暴に唇を塞がれました。
悲鳴を上げるように、エミィの左胸が鋭く瞬きました。細い腕で、必死に、男の顔を腕をぶっても、何の反応もありませんでした。悲鳴が絶叫に変わります。刺すように輝く左胸に、男が初めて、微かに目を眇めました。
「静かにしなさい、エミィ」
男は、ベッドの上に転がっていた小さなリモコンを拾い上げると、部屋の隅目掛けて無造作に放り投げました。ランプが床に落ちて、ガチャンと音を立てて割れました。部屋は完全な闇に閉ざされ、エミィの左胸から溶け落ちたように光が消えました。
「ラスタル星人は、微かな光を捉えて、反射鏡の中で何倍にも増幅するんだそうだね? でも、光がなければ、何も出来ない。書いてあったとおりだ」
闇の中で、男は満足げに微笑みました。
もう一度、唇が塞がれました。お気に入りのキャンディを味わうかのように、男の舌が自分の舌に絡みつくのを、呆然と、エミィは感じていました。何も見えない真っ暗闇の中で、頭が真っ白になり、何も分からなくなりました。反射する光の無いまま、反射鏡の表面がぐるぐると波立ち、絶叫していました。
着せられたばかりのワンピースが、左胸の切り込みから乱暴に破かれるのを遠く感じました。両腕は無理やりに組み合わされ、男の片手の平で、シーツに縫いとめられました。
骨ばった指先が、執拗に胸と首筋を這い回りました。激しく首を振り、自由な両足を振り回しても、空気を裂くばかりでした。恐怖の涙が両頬をぼろぼろと伝い落ちていきます。それすらも愛しむように、男の舌が目尻をなぞりました。
3時間以上、舌を絡ませる口付けと胸部への愛撫が続きました。いつからか、少しずつ、首を振る代わりに、細い肢体はびくりと反り返るようになり、思考力は奪われ、反射鏡は発作的に短く波打ち、暗闇で目を塞がれているはずの男が、やがて、壮絶に微笑みました。
カチリと小さな音がして、男の胸部ポケットに差し込まれていたペンライトの白い光が部屋を照らしました。短く鋭く輝いた反射鏡と、真っ赤に上気した小さなラスタル星人の顔を見て、男は心から満足したようでした。
もう一度、長く長く唇を塞がれて、エミィは呻きました。付けっぱなしのペンライトを反射して、反射鏡が弱々しく明滅を繰り返しました。
両手の拘束が解かれました。男の両手が、下腹部からさらに下へ滑り降りてゆきました。
湿った音を立てて、長い指先が身体の中を掻き回し、熱に浮かされて震える小さな塊を何度も追い立て、
意識が飛ぶようにと魂を掛けて願っても、現実に囚われたまま何処へ逃げることも許されず、
身体を貫いた激痛に、反射鏡が絶叫し、一瞬、何倍にも膨れ上がったペンライトの光が部屋中を白く染め上げましたが、男の握り拳が反射鏡を叩き割ったので、部屋は一瞬で元の暗闇を取り戻しました。
叩きつけるように揺さぶりあげられ、全身がばらばらになりそうな痛みに歯を食いしばり、ぼろぼろと涙だけが零れ落ち、無意識のうちに、両手が喉元を掻き毟っていました。
部屋の隅に、三人のコロニオン星人が笑っている写真立てが、転がっていました。表面の硝子には、深く亀裂が走っていました。
それから4ヶ月、毎日のように、昼は部屋に閉じ込められ、夜は男の叫びを叩きつけられ、身体も心も壊れきったある日、小さなラスタル星人は、男が留守の間に、自分を縛っていた鎖を見て、考えに考えました。
足元に置かれた、プラスチック製の水飲み皿を拾い上げ、窓に向かって懇親の力で投げつけました。何度も何度も何度も何度も投げつけた挙句、硝子が割れて、破片の一つが近くに飛んできました。
一縷の迷いも無く、ガラス片を握りしめると、自らの下腹部に思い切り突き立てました。
それでも死ねなかったので、出血による痙攣で震えながら、ガラス片を引き抜くと、今度は首筋の動脈を掻き切りました。
絶叫の代わりに噴き上がった真っ赤な血液が、天井に美しい絵を描きました。
同じ日の夜、同じ部屋で、エミィの死体をきっちり辱めてから、コロニオンの男は首を吊りました。
*
やがて、順番が回ってきました。
*
60代くらいの、目つきがきつい、油気のある髪をうなじで纏め上げたコロニオン星人がやってきました。彼女の身体は、長い年月にさらされて、すっかりしわくちゃのゴムのような按配になっていました。深く曲がった腰をさらに屈めて、のろのろと手続きを済ませると、老女は無言で小さなラスタル星人を見やりました。無造作にぼろきれを押し付け、「着な」と言いました。小さなラスタルが、訳も分からずにぼんやりと宙を見つめていると、老女はめんどくさそうに溜息を付き、しぶしぶといった感じでマントを着せてやりました。そしてそれっきり無言で、おんぼろ連絡船で隣のコロニーに渡り、ラスタルの手首から伸びる鎖を引っ張って、大通りを歩いていきました。
「なあおい、隣のコロニーに、新しい狩場が出来たって聞いたか?」
「聞いた聞いた! 奴隷船二隻分の『妖精』をわざわざ取り寄せたらしいぜ。捕獲と購入セットで一匹6000ウェル、狩猟なら一匹9000ウェルだってさ!
次の兵役明けたら行くっきゃないな!」
「でもよう、一番安い市場に行けば、最低ランクの奴が一匹1000で買えるじゃねえかよ。それなのにわざわざ高い金払ってってのもなぁ……」
とかなんとか、非常に物騒な会話を交わしている二人組と擦れ違いましたが、幸いなことに、小さなラスタル星人にはただの音の連なりにしか聞こえませんでした。老女が、微かに目を眇めながら、二人組を見送りました。二人組は、ラスタルと擦れ違った時、まるで値踏みするような目で見ていましたので、横取りされないか心配だったのかもしれません。
大通りの端から裏路地に入ると、すっかり静かになりました。
柱の傾いた家やら、壁に穴の空いた家やら、そんなものをいくつもいくつも通り越した先に、ふいにぽっかりと、立派な門構えの家が現れました。老女は、ひどく梃子摺りながら、錆だらけの門を押し開けて、閉めました。死に掛けた門は、乱暴に閉められた時に、かなり耳障りな音で大きな悲鳴を上げましたので、ラスタル星人はびくりと肩を震わせました。
家の中も酷い有様でした。廊下のあちこちに蜘蛛の巣が飾られ、小さなラスタルの僅かな体重ですら、古ぼけた階段はぎぃぎぃと軋みました。何も見えない真っ暗な暗闇の中を、鎖を引かれるままによろよろと歩きながら、ラスタルはぼんやりと、寒いなぁ、とだけ、考えていました。
ふいに、老女が立ち止まりました。木の扉を叩く音が、狭い廊下に跳ね返ってとても大きく響きました。奔放に飛び跳ねるノックの音を眺めるように、一呼吸ほど間を置いてから、老女は口を開きました。
「……お嬢様」
その声がとても柔らかい響きだったので、ラスタルはちょっと驚いて彼女を見上げました。暗い視界では、自分の鎖を引いている人物の顔なんて分かりませんから、突然、別のコロニオン星人が現れたのかと思ったのです。
そしてそれは、あながち間違いでもありませんでした。
「ブラウン?」
扉の向こうから、幼さの残る、たどたどしい声が応えました。老女は、さっきと同じくらい柔らかい声で「失礼致します」と言うと、扉を押し開けました。
真っ暗な廊下に、さっと西日の赤い筋が差しました。小さな部屋の西側は、一面が窓になっていたのです。老女は眩しそうに目を細めましたが、ラスタルにとっては、真っ暗だった視界に突然黄昏の光が戻ってきたようでした。世界は薄暗く、全てに影が掛かっていましたが、それでも、ぼんやりと人の顔を見分けることが出来ました。
調度品の多くには薄く埃が積もっていましたが、部屋は丁寧に整頓されていました。大きな本棚には革表紙の本がぎっしりと詰め込まれ、ここまでおんぼろな屋敷には似合わない、新品のように傷ひとつない衣装箪笥や化粧台まで揃っています。スケッチブックが何冊も散らばる木製のベッドに横たわっていた小さな人影が、ゆっくりと起き上がって、ラスタルを見ました。
「お嬢様。お誕生日、おめでとうございます」
老女がそう言ったとたんに、少女は大きく目を見開きました。瞬きも忘れたかのように、老女の傍らに佇んでいる小さなラスタル星人を見つめて、何かを言おうとしては何度も失敗してから、やっと一言呟きました。
「……ほんとに、買ってきてくれたの」
「お嬢様が仰られたのではないですか。いつかラスタル星人を飼ってみたいと」
「でも、でも、ブラウン、高かったでしょうに」
「そんなことをお気になさいますな。この屋敷で迎える、お嬢様の初めてのお誕生日ではありませんか。これくらいの贅沢なら、旦那様も許してくださいます」
目を潤ませ、声を震わせている少女を、老女は慈しむように見つめて、微笑みました。そして、ラスタルの背中を、とんっと叩きました。一歩、ふらりと前に出たラスタルは、どうすれば良いのか分からず、老女を見上げました。老女の顔から、一瞬、微笑が消えました。さっきよりも強く背中を押され、ラスタルはやっと、前へ進めと言われているのだと理解しました。よろよろと歩き、少女のベッドの傍まで来て、立ち止まりました。
「こちらが手錠の鍵です。お外しするかは、お嬢様にお任せいたします」
少女の小さな手の平に鍵を握らせると、老女は一礼して、部屋から出て行きました。もし、そのラスタル星人がお嬢様になにか粗相するようであれば、すぐにお呼びください、と言い残して。
部屋には、ぼんやりと佇むラスタルと、少女だけが残されました。
「……外したら、逃げちゃうかしら」
少し困ったように眉を寄せて、少女は、ラスタルの手首と鍵を交互に見ました。それから、思い出したように、ラスタルの顔を見上げました。生気の欠片もない、力を失った青い瞳が、白昼夢の中を彷徨うように、遠くを見つめています。呼吸を数回数える間、じっと、そのやつれた表情を見つめていた少女は、小さく呟きました。
「無理ね」
そして、だらりと垂れていたラスタルの手首に触れ、持ち上げると、少しだけ梃子摺りながら鍵を外しました。かちり、と錠が回ったとたんに、重い鉄の手錠が、ごとりと音を立てて床に落ちました。
数日振りに腕が自由になったことに、ラスタルは最初気づきませんでした。今の音はなんだろうと、のろのろと視線を落として、初めて気づいたのです。どうして鎖がいきなり外されたのか理解できずに、ラスタルは呆然と自分の手を見つめました。ゆっくりと、顔の前まで持ち上げます。暗い視界に、自分の腕の輪郭がはっきりと見えました。もう、どこにも、あの重い鎖はついていません。
「これでいいわ。動きにくいのは嫌だもんね」
少女はにっこりと笑って、ラスタルの手を握りました。
「私はエリーゼというの。今日から貴方は私のラスタルよ。…あ、そうだ、困ったな……。貴方にも名前がいるわね」
口元に指を添えて、うーんうーんと唸りだしたエリーゼを、エリーゼに握られている自分の右手を、ラスタルは見下ろしました。コロニオン星人の手が暖かいものだということが、なんだかとても不自然なことのような気がしたのです。コロニオン星人に捕まったが最後、遠い遠いところに連れて行かれて、食べられてしまうか、儀式の生贄にされるのだと聞いていましたから、きっと彼らの手は氷のように冷たいに違いないと思っていたのです。
「……貴方は、女の子なのかしら、それとも男の子? ちょっと分からないし……でも、うん、可愛い名前がいいな。ね、お願い、貴方の顔、もっとちゃんと見せて頂戴」
エリーゼが細い腕をふいに伸ばしてきたので、ラスタルは怯えたように一歩後ずさりました。けれど、右手を握られているので、それ以上は逃げられません。いくら小さなラスタルでも、振り払おうと思えば、こんな少女の手くらい振り払えるでしょう。でも、もう、ラスタルは、そんなことすら思いつきませんでした。だから、震えながら、少女を見下ろすことしか出来ませんでした。
エリーゼは、ちょっと傷ついたような顔をして、小さく溜息をつきました。
「言葉が分かればいいのにね……」
一度腕を引っ込めると、エリーゼはラスタルをじっと見つめながら、腕を上げ下げしてみせました。ラスタルが戸惑ったようにエリーゼを見つめても気にかけず、何度も何度も。
「お座り。座って。座っていいの」
エリーゼが同じ言葉を呪文のように繰り返すので、ラスタルはなんとなく、腕のとおりに動けと言われているような気がしてきました。おずおずと、しゃがんでみると、エリーゼはぱっと笑顔を浮かべて、いきなりラスタルの肩を抱きしめました。
「よく出来ました! さ、じゃあ、お前の顔をよく見せてね」
驚きすぎて硬直しているラスタルの顔を両手で挟むと、エリーゼは、ラスタルの怯えた青い瞳をじいっと見つめました。
「青い瞳、いいなあ……。コロニオン星人は大体赤か緑なのよ。髪だって緑だし。金髪に青い瞳なんて、ずるいわ」
ぶつぶつと呟いて、気を取り直すように咳払いすると、エリーゼは微笑みました。
「ん、決めた! 貴方の名前。何度も呼ぶからちゃあんと覚えてね。貴方は今日から、タルト。可愛いし、美味しそうな名前でしょ?」
西日の最後の残光がゆっくりと部屋から消えていきます。ラスタルの左胸に煌く反射鏡の中で、縋るように、橙色の光の欠片が散りました。金色の髪を、まるで人形を慈しむかのように大切に撫でながら、歌うように、エリーゼは言いました。
「宜しくね。私の大事なお友達」
それからは、エリーゼの部屋が、タルトの居場所になりました。
彼女は、ほぼ一日中を部屋の中で過ごしていたので、タルトもまた、自然と一日のほとんどをエリーゼと一緒に過ごすことになりました。
彼女の一日は、ブラウンの間延びしたノックの音で始まります。身支度も、朝食も、彼女はベッドの上で済ませるのでした。ベッドから降りるのは、せいぜい一日に三回か四回といったところでしょうか。エリーゼは、部屋の調度品や柱に掴まりながら、よろよろと、一歩一歩ずつしか歩けないようでした。部屋の外へ出ることは少なく、出たとしても、すぐに疲れた顔で帰ってきます。
そんな彼女を、タルトは部屋の隅からじっと見つめて、時を過ごしていきました。小さな部屋の隅、本棚と衣装箪笥の間の狭い隙間が、タルトの『巣穴』です。膝を抱え、うずくまり、ベッドに寝たきりのエリーゼの様子を伺っている分には、多少は恐怖が薄らぎました。(緩慢な彼女が自分に突如襲い掛かってくるなんて、あまり想像出来ませんでしたから)
食事は、エリーゼと同じものを分け与えられました。最初は、差し出されたものが食べ物だと分からず、エリーゼを散々辟易させました。結局、空腹が警戒心に負けて、食べてみたのですが、酷くお腹を壊し、マスクと手袋で完全防備したブラウンに箒でこっぴどく打たれる羽目になりました。
それでも、月日がゆっくりと流れていくうちに、タルトはいくつかのことを覚えました。「タルト」という音の連なりが自分を呼ぶものだということも覚えましたし、「エリーゼ」と「ブラウン」、「ご飯」「シャワー」「トイレ」「おはよう」「おやすみ」の意味も覚えました。お腹が痛くなったときにどうすればいいか分からず立ち往生することもありませんし、部屋から出るのは怒られなくても屋敷の玄関に近づけば怒られること、食事を出してもらっていない時に摘み食いに行けば怒られること、「エリーゼ」に呼ばれたら、出来るだけ早く戻らないとあとでブラウンに怒られることももう分かっています。
(どうして、自分はこんなところにいるんだろう)
『巣穴』で、膝を抱えながら、タルトは夜中が来る度に泣きました。どうしても眠れなくて、泣き続けて朝を待つこともありました。
父も母も、目の前でコロニオン星人に殺されてしまいました。ラスタル星には、あの恐ろしい奴隷船に乗って何十時間も揺られなければ帰れません。というよりも、きっと、二度と帰れないでしょう。
(……おかあさん)
(さびしいよ)
膝に額を乗せて、すすり泣いていると、時々、エリーゼが目を覚ましてしまうことがありました。そんな時、タルトはすぐに息を殺して、涙を堪えます。エリーゼが目を覚ましている時は泣いてはいけないのです。彼女が寝不足の顔をしていると、ブラウンがこっぴどくタルトを叱りますし、自分の鼻を啜る音が彼女の眠りを邪魔していることくらいは、タルトにだって分かりましたから。
「……タルト、眠れないの?」
それなのに、その日は泣いていたことがばれてしまったのでした。いえ、泣いていることがばれた日だけなら、他にもあったかもしれません。だけど、エリーゼが、泣いているタルトに話しかけてきたのは、その日が初めてでした。いつもなら、困ったように溜息をついて、タルトが泣き止むまで、彼女はじっと静かに待っているのです。
真っ暗な闇に閉ざされた部屋では、エリーゼが身体を起こす微かな音ですら良く響きます。彼女が、蝋燭に明かりを灯して、危なげな足取りで近づいてくるのを、タルトは怯えた眼差しでじっと見つめました。
「……君も、お母さんに会いたいのかな」
エリーゼは、ぽつり、と呟いて、ゆっくりと床にしゃがみ込みました。足を曲げる時、とても痛そうに顔を歪めて、呻き声をあげましたので、タルトは自分がなにかしたのかと、身体を強張らせました。
「怖がらないで、ね。お願いよ。私、お友達になってほしいだけなの」
エリーゼは、タルトと目線を合わせて、必死に言い募りました。けれど、タルトには、やっぱりよく分からない音の連なりにしか聞こえません。エリーゼだって、そんなことは分かりきっています。小さく溜息をつきました。ゆっくりと、細い腕を持ち上げて、タルトに見せました。
「私は、身体が弱いから、ずっとお屋敷から出してもらえなかった。お友達なんて、本の中でしか読んだことがないの。だから、どうすれば貴方とお友達となれるのかも、どう接すればいいのかも、わからないの」
腕を持ち上げたまま、独り言のように、エリーゼはぽつぽつと言いました。蝋燭の弱い明かりだけが照らしている暗い部屋に、タルトの青い瞳が、宝石のように浮かんでいます。反射鏡は、しんと静まり返っています。
エリーゼは、そうっと、タルトの髪に触れました。彼女だって、今は分かっていました。自分が、愛情を伝えるつもりでタルトを抱きしめたり髪を撫でたりしても、この小さなラスタル星人は怯えるだけだということを。それでも、どうしても諦められなくて、エリーゼは、静かに静かにタルトの頭に触れました。青い瞳が怯えて、小さな身体が微かに後ずさります。反射鏡が、微かに瞬きました。
「怖がらないで」
縋るように、エリーゼは言いました。そして、ゆっくりと、タルトの髪を撫でました。乱暴に扱えば壊れてしまう硝子細工を扱うように、か細い野草の蕾に触れるように、慎重に、そうっと撫でたのです。辛抱強く、タルトの警戒心が緩むまで、何度も何度も、ゆっくりと、撫で続けました。
『……どうして』
タルトの左胸が、微かに瞬きました。どうして、両親を殺して、あんな恐ろしい船に積み込んで、鞭で散々叩いて、こんなところに連れて来て、こんなことをするのだろう。どうして、母と同じように、優しく頭を撫でたりするのだろう。
訳が分からなくて、タルトはますますぼろぼろと涙を落としました。けれど、エリーゼの手を振り払おうとはしませんでした。
「タルトも描いてみない?」
次の日、エリーゼは、最高の思いつきだと言わんばかりの笑顔を浮かべて、タルトにスケッチブックとクレヨンを差し出しました。60色以上のカラフルなクレヨンで、絵を描く様子を実演してみせたのです。
これは劇的な効果をあげました。絵を描く文化はラスタルにもありましたから(もちろんクレヨンなんてありませんでしたが)、タルトはスケッチブックを絵でいっぱいにしていきました。ほとんどはラスタル星の風景で、エリーゼはどの絵も面白そうに見つめては感想を言いました。ただ、薄暗い世界ではどうにも細かい色彩の違いが分からなかったので、タルトの絵はどれもこれも色使いがめちゃくちゃなのでした。
「ほら、これが貴方よ」
エリーゼはクレヨンよりも色鉛筆を好んで、柔らかい色合いでタルトの似顔絵をよく描きました。左胸に描かれた反射鏡で、これが自分らしいということはなんとなくタルトにも分かりました。初めて、まじまじと、怯えのない眼差しで、タルトはエリーゼを見ました。相変わらず訳が分かりませんでしたが、エリーゼはどうやら自分を食べるつもりはないのかもしれない、と、タルトはやっと思うことが出来ました。心の底に掛けられていた鍵のひとつが、外れた瞬間でした。
だから、ある日、タルトは描いたのです。記憶の中の一番おぞましい部分、レーザー銃を持ったコロニオン星人が、自分の両親を、自分の住んでいた村をめちゃくちゃにしていく様子を描きました。狭い奴隷船の中に、ラスタル星人が数珠繋ぎにされている絵も描きました。一人一人の顔に涙を描きながら、タルトはスケッチブックの上にぼろぼろぼたぼたと涙を落として、肩を震わせ、歯を食いしばりました。
エリーゼは、すぐにタルトの様子がおかしいことに気が付きました。スケッチブックから顔を上げて、よろよろとベッドから降り、タルトの背中越しに絵を覗き込んだのです。エリーゼは息を呑みました。その微かな音に気づいて、タルトはビクッと肩を竦ませ、振り返りました。エリーゼを見て、震えだしました。反射鏡が、短く鋭く瞬きました。
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『ぶたないで』
『ごめんなさい——』
エリーゼも、微かに震えていました。戸惑いの眼差しで、タルトと、スケッチブックにぶちまけられた恐ろしい世界を交互に見ました。
「……タルト、この絵は何を描いたの?」
エリーゼには、分かりません。奴隷商売の実態も、ラスタル星人がどのようにしてコロニオンに連れて来られ、どのように売買されるのか、彼女は何も知らなかったのです。
「悪い夢を見たの? ……ねえ、そうなんでしょう? タルトは、こんなに、私たちのことが嫌いなの?」
数歩後ずさると、まるで逃げるように、エリーゼは部屋から飛び出していきました。
一人きり、静寂の中に残されたタルトは、呆然と、開けっ放しの扉を見つめました。壊れたおもちゃのように、あの日、両親が殺されてからずっと胸に閉じ込めていた絶望が溢れ出してしまったかのように、後から後から涙が零れてきます。
『…えりーぜ』
初めて、タルトは彼女の名前を呼びました。昼下がりの太陽の光を反射して、左胸が弱々しく瞬きました。
スケッチブックを拾い上げ、抱きしめると、タルトは初めて『声』をあげて泣きました。仰向いて、酸欠に苦しむように口を開けて、反射鏡の中で増幅させた光を爆発のように輝かせながら、泣きました。啜り泣きでは外に出せなかった感情の本流を全部吐き出すように、日が沈んで部屋の中から光が消えてしまうまで、泣き続けました。
部屋が暗くなっても、エリーゼは帰ってきませんでした。
翌朝、ノックの音で、タルトは目を覚ましました。泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまっていたのです。辺りを見回して、部屋の中にエリーゼの姿がないことに気づき、さあっと青ざめました。ブラウンにぶたれる、と反射的に自分を抱きしめました。
ノックの音が続きます。
「……タルト、いるの? まだ、ここにいる?」
ノックの音に紛れて聞こえてきた微かな声は、エリーゼのものでした。何処かに隠れる場所はないかとオロオロしていたタルトは、危うく聞き落としてしまうところでした。
しばらく、伺うように扉を見つめてから、ゆっくりと、おずおずと、タルトは扉に近寄りました。こつん、と小さく叩いてみました。
「良かった」
扉の向こうから、安堵の溜息が聞こえてきました。
しばらく沈黙が落ちました。どうすればいいのか分からず、タルトは扉を見つめて立ち尽くしました。エリーゼが「タルト」と言っている以上、呼ばれているということですから、扉を開けて傍に行った方が良いのかもしれません。でも、彼女は、まだ怒っているはずです。絵を見たとたん、部屋から出て行ってしまったくらいなのですから。
「私、図書館に行ったの。ブラウンに頼み込んで」
エリーゼが掠れた声で何か言いました。ブラウン、という言葉だけが聞き取れて、タルトは身体を強張らせました。やっぱりぶたれるのかも。痛いのはもう嫌だ……
「調べたの。初めて、自分で。子供向けの本棚には置いてなかった。大人が読むための、背の高い本棚を探して、やっと見つけたの。難しい言葉ばっかりだったけど、絵がいっぱい載ってたからなんとか分かった。『奴隷貿易成功の秘訣、ラスタル星人の生態と扱いについて』」
エリーゼの声が震えました。タルトは、戸惑ったように扉を見つめるしか出来ません。何を言われているのか、さっぱり分かりませんでした。ただ、どうやら、エリーゼが泣いているらしいということだけ分かりました。
「私、昨日、とても部屋に戻れなくて、ブラウンの部屋で寝たわ。ブラウンに、もう絶対にタルトをいじめないでって百篇も言った。でも、そんなことしたって仕方ないよね、私、コロニオン星人で、あなたを買ったんだもん。あなたをペットみたいに買ったんだ!」
扉が、がたんっと大きな音を立てました。タルトは、びくりと肩を竦ませて、後ずさりかけて、——エリーゼが声をあげて泣き出したので、もう一度扉を見ました。酷く葛藤してから、取っ手に手を掛けました。
おんぼろな廊下の、古びた絨毯の上に崩れ落ちて、エリーゼは泣いていました。扉が開いたことに、信じられないように顔を上げて、タルトを見上げました。
『エリーゼ、おこってるの? …どうしてないてるの? ぼく、なにか、わるいこと……』
おずおずと瞬く反射鏡を、エリーゼは見上げました。その光の瞬きが彼の言葉だと分かった今でも、その意味までは分かりません。苦しそうに表情を歪めると、エリーゼは顔を覆って俯きました。肩を震わせ、嗚咽を噛み殺します。泣き止もうとします。考えてみれば、自分に、泣く資格なんてあるはずもないのです。
だから、自分の髪にか細い指先が触れたとき、エリーゼは息も止まるほど驚きました。両手を顔から離すと、戸惑いの表情を浮かべたタルトが自分の傍に跪いているのが見えました。タルトの指先がぎこちなく震え、撫でようとする感触も伝わってきます。
許してくれるの、と、言いかけて、エリーゼは言葉を飲み込みました。自分の言葉も、後悔も、なにひとつ、タルトには伝わっていないのです。しゃくりあげ、タルトの細い肩口に顔を埋めると、エリーゼはうわごとのように繰り返しました。
「ごめんね……ごめんね、ごめん、タルト、ごめんなさい、ごめんなさい……」
うろたえたタルトが何かを光の言葉で呟くのと、自分の背中に小さな手の平が触れるのを感じながら、エリーゼは泣き続けました。
数ヶ月の時が流れました。タルトは、何故か突然ブラウンにぶたれなくなったことを不思議に思いながら、今までより幾分自由に過ごしていました。ブラウンとエリーゼがかなり梃子摺りながら大掃除を始めたと思ったら、エリーゼの部屋の隣の一室をまるごといきなり与えられて、呆然としたこともありました。ベッドも家具も机も全て自分が自由に使っていいなんて分かるはずもなく、それが分かるまで、誰もいない一室なのに本棚の隙間で眠っていたくらいです。
ブラウンは、それでも時々は昔のような眼差しでタルトを眺め、叱りつけたい衝動と戦っているように見えることもありました。エリーゼは以前よりも優しくなって、なんやかやと世話を焼きたがり、蝋燭のつけ方と始末の仕方、楽器の弾き方や水彩絵の具の使い方などなど、言葉がなくても出来ることをいくつも教えてくれました。
夜中、真っ暗な部屋の中で嫌な夢にうなされると、蝋燭に灯をつけてエリーゼの部屋へ行くこともありました。ノックをすれば、どんな時でも彼女は目を覚まし、自分の方も痛そうな表情をして、タルトを部屋に入れてくれました。本棚の隙間にもぐろうとすると、引き留められ、一緒に布団に入れなんて手振りで言うのです。最初は辟易しましたが、柔らかい細腕に抱きしめられて眠った晩には悪い夢に襲われることも実際ありませんでした。
スケッチブックには、柔らかい色合いの絵が増えていきました。暗い視界に苦労しながら、タルトはエリーゼの似顔絵も描くようになりました。暖かい笑顔や、スケッチをしている横顔や、自分とエリーゼが手を繋いでいる絵を描きました。エリーゼは、スケッチブックの中に自分の顔を見つける度、ちょっと泣きそうな顔をしたり、照れくさそうに笑ったりしました。少しずつ、本当に少しずつ、タルトは笑い方を思い出していきました。
『ことばが、わかればいいのにな……』
ブラウンと一緒に、屋敷の掃除を手伝いながら、タルトはぽつりと反射鏡を瞬かせました。
『そしたら、エリーゼに、ぼくのなまえはリューンィーっていうんだよ、って、おしえられるのに……』
砂時計のように、時は流れていきました。
エリーゼは時々、高い熱を出して寝込むことがあり、その度にタルトは付きっ切りで看病しました。エリーゼが心配だという点でブラウンとタルトは互いに共通点を見出し、少しずつ仲を深めてゆきました。
数年の月日が流れた頃には、小さなラスタルとコロニオンの少女は、青年と娘になり、お互いに自然と恋に落ちました。母と息子のような、姉と弟のような絆が、恋人の絆に変わり、二人は小さな小さな世界で、互いを自分の半身のように感じて、暮らしていたのです。
ある日、屋敷の外が騒がしくなりました。
次の日、コロニーの中で内乱が勃発しました。
空から爆弾が降り注ぎ、裏通りのおんぼろな建物を全て粉々にふっ飛ばしました。
タルトはその時、一階にいたのです。不穏な空気に怯えるエリーゼのために、暖かい飲み物を作ろうと、厨房に向かっていたのでした。あっという間もありませんでした。轟音が響き、屋敷全体が激しく震え、嫌な音を立てて軋んだかと思うと、天井が砂塵を撒き散らしながら落ちました。
真っ暗などこかで、焦げ臭い匂いを感じて、タルトは目を覚ましました。瓦礫と瓦礫の隙間で、気を失っていたのです。柱に挟まれた片足をなんとか引き抜くと、タルトはよろよろと立ち上がりました。
『……エリーゼ』
『エリーゼ、——エリーゼーッ!!』
身体のあちこちをぶつけながら、真っ暗闇の中を、タルトは駆け抜けました。反射鏡はぐるぐると波打つばかりで、一言の光も発することが出来ませんでした。廊下を塞ぐ瓦礫を押しのけ、掻い潜り、耳に全ての神経を集中させて、這って、走って、やがて、視界の隅に小さな光を見つけました。無我夢中で通り抜けると、熱波と光が視界を焼きました。
世界は火の海になっていました。人々の悲鳴を掻き消すようにして、銃撃戦の音もあちらこちらから聞こえます。炎に照らされて、今までずっと薄暗かった世界が、初めて昼間のようにはっきりと見えました。
呆然と、タルトは、崩れ落ちて燃えている屋敷の残骸を見つめました。
左胸の反射鏡が、光を爆発させました。一瞬の躊躇いもなく、燃え盛る屋敷の瓦礫の中に、タルトは飛び込みました。一階部分は押し潰されてぺしゃんこになっていましたが、二階部分は、まだ微かに骨組みを残しています。一直線に、タルトはエリーゼの部屋を目指しました。
歪んだ扉を蹴り開けると、家具の全てが引っくり返ってめちゃくちゃになった部屋の様子が視界に飛び込んできました。窓が割れ、カーテンと天井を炎が舐めています。
エリーゼは、ベッドの脇に倒れていました。細い体の上に倒れている本棚を見るや、タルトは悲鳴をあげるように反射鏡を瞬かせ、無我夢中でエリーゼを引きずり出しました。
彼女の、緑色の髪の間から、真っ赤な血がだらだらと伝い落ちていました。震える指でタルトは彼女の首筋に触れ、左胸に耳をつけました。瞠目して、そのまま動けなくなりました。
『……どうして』
『どうして、ぼくらは、いつも』
炎が、彼女の顔を眩く照らし出します。彼女の顔を、こんなにはっきりと目にすることが出来たのは、これが初めてでした。今なら、まつげの一本一本まで、数えられます。緑の髪の色合いも、その美しさもどうしようもないほどに分かります。
タルトは、エリーゼの身体を掻き抱きました。ぼとぼとと涙が落ちるのもそのままに、ぐったりとした彼女の肩口に顔を埋めました。反射鏡が爆発したかのように荒れ狂い、光が世界を真っ白に染めました。
その光は稲光よりも眩く、炎の海を貫いて天までも届きました。
上空を旋回していた戦闘機のパイロットは肝を潰して、何か知らない新型兵器を使われる前にと、光が放たれた地点に照準を合わせ、めちゃくちゃに銃とレーザーと爆弾を打ち込みまくりました。
雨のように降ってきた銃弾に背中を貫かれ、倒れながらも、タルトはエリーゼの身体を離そうとしませんでした。床に倒れた時、エリーゼの後頭部をひどく打ちつけてしまって、胸が裂かれたように痛みました。
鼓膜を割るような轟音が響きます。柱が軋みます。暗くなっていく視界の中で、タルトはエリーゼを見つめました。
なにか言おうと、反射鏡を瞬かせましたが、ばきばきと唸りながら落ちてきた天井に潰されて、その光の言葉は誰にも届きませんでした。
*
……やがて、順番が回ってきました。
これらは全て、ある一人のラスタルの話です。
一人の小さなラスタルが、ぼうっと何も見えない宙を見つめていました。涙や、恐怖や、絶望は、68時間の船旅で擦り切れてなくなってしまいました。今は何も感じません。裸のまま、大勢の人前に連れ出されて、何か言われていることも、全てが夢の中の出来事のようでした。
誰かが自分を買うためにやってきたことにも気づかず、リューンィーは、ぼんやりと佇んで、宙の向こうを見つめ続けていました。
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